Kotoba (March 2020)

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Published March 6, 2020
Incomplete translation
Kotoba Spring 2020

An essay written by Hirohiko Araki discussing the importance of villains and how to create them, as well as explaining the root of evil with DIO. It was published in the Spring 2020 issue of the Kotoba magazine on March 6, 2020.[1]

Interview

TranslationTranscript

The Existence of DIO, The Supreme Evil

JoJo's Bizarre Adventure has become immensely popular both domestically and overseas. Since it first began its serialization 33 years ago, one of the most popular characters in the work has been DIO, the main villain in the early days of the series. Even though he is arrogant and wicked, readers are somehow captivated by his charm. Author Hirohiko Araki will now examine this mystery.

JoJo's Bizarre Adventure is a work that was created with characters first and foremost, rather than plot. In particular, I don't think the story would've been possible without the villain DIO, who confronts the family of protagonist Jonathan Joestar across generations. It's because of this extraordinary villain, DIO, that Jonathan stands out as a character. It would've been much more difficult to create the story without DIO.

The Novelty of the Villain DIO

There's a certain theory to crafting a traditional story in manga: specifically, to start by creating a strong and attractive villain. The protagonist is then assembled as a response. Whether they're a champion of justice in the public eye or a person who dilligently follows the law, the character is created to gain the reader's sympathy. It should be noted that an "antagonist" isn't necessarily a "villain." Villains can also be characters who compete with the protagonist, such as "rivals." In fact, it seems that route is more common.

Therefore, an antagonist as evil-minded and cruel as DIO might have been rare at the time. After all, he immediately committed the most cruel acts possible, like tying up the protagonist's pet dog and burning him in an incinerator.

Furthermore, manga artists also think a lot about topics such as, "If Ultraman fought Godzilla, who would come out on top?" They create stories from ideas like, "Who's the better fighter, Stallone or Schwarzenegger?"

But when you really think about "who is strong," "who is evil," or "what kinds of people make others sick" every day, you somehow end up realizing that you can't boil it down to a single field, or that it's strange to look at a character from only one angle. There comes a time when you realize that "black and white simply aren't enough." Motivations are very important for the characters of a story, answering questions such as, "Why do they act like that? Why are they taking on that task?" or, "What possible reason could they have for trying to defeat that enemy?" If you simplify a story into one of rewarding good and punishing evil, the story hits a dead end.

The villain I came to after such agonizing is DIO. As an immortal, he thinks and acts only from the perspective of himself. In his world, there is only himself and "them." It's not that he wants to conquer the world, but that he completely denies the social idea of happiness (family, lovers, friends, and so on) within his sphere of activity, and as long as he can feel his own existence, his desires must be fulfilled.

In contrast, Jonathan is burdened with values that oppose DIO's, such as family, lineage, and succession. That said, the protagonist of Part 3, Jotaro (Jonathan's great-grandson), and DIO, while representing the good and evil of the orthodox axis of conflict in manga, both have the special ability to "stop time." Because they share the same power, the Joestar family (the protagonist's family) are targets that DIO seeks to eliminate and purge. On the other hand, Jotaro fights under the circumstances of his mother facing death if he doesn't destroy DIO as soon as possible. In any case, both of them are positive about their motivations. DIO would never think, "This is too much hassle. I should cease my destructive activities" (laughs). He has a firm belief that "this is the right path." I think that is what lies at the root of the appeal of DIO's evil.

The Root of Evil is Fear

The origins of JoJo lie in vampire myths. Fear doesn't necessarily come from evil, but it plays an important role in heightening suspense. At the same time, it can also be a wonderful seasoning to make a villain stand out. When I thought about "what is most terrifying," I considered such things as a strong and violent person, or someone with an invincible weapon. I realized that being attacked by something you have no memory of, such as a curse passed down from your ancestors, is profound and especially scary.

That's where JoJo started from. The idea of being cursed without realizing it, as well a horror that threatens from across eras, were combined with the idea of a "vampire myth" to create JoJo. When the series first began in the late '80s, works dealing with serial killers and bizarre murders, such as The Silence of the Lambs (originally published in 1988), were becoming popular...


至高の悪としてのDIOの存在

荒木飛呂彦
(漫画家)

いまや国内外で絶大な人気を誇る『ジョジョの奇妙な冒険』。連載開始以来、三三年もの歴史をもつ本作で根強い人気の登場人物が、シリーズ初期の悪役、DIO(ディオ)である。傍若無人、悪逆非道でありながら、なぜか読者は彼の魅力に取りつかれてしまう。その「謎」を作者・荒木飛呂彦が検証する。


 ストーリーではなく、キャラクター先行で作り上げた作品が『ジョジョの奇妙な冒険』です。とくに主人公ジョナサン・ジョースターの一族と世代を超えて対峙する、DIOという悪役なくしては成り立たないストーリーだと思っています。このDIOという並外れた悪役がいたからこそ、ジョナサンというキャラクターの存在が引き立ってくる。「DIO抜きでストーリーを作れ」と言われても難しかったでしょう。

DIOという悪役の新しさ

 漫画における伝統的なストーリー作りにはセオリーがあって、まず強い敵役、魅力的な敵役を作るということがあります。それに対して主人公を構築していく。世間が思うような正義の味方であれ、法に忠実な人物であれ、読者の共感が得られるようなキャラクターを造形します。「敵役」は必ずしも「悪役」とは限りません。敵役には「ライバル」と呼ばれるような、主人公と切磋琢磨していくようなキャラクターも含まれます。むしろその方が一般的と言えるでしょう。

 ですから、邪悪な心をもち、残酷な行動に走るDIOほどの敵役というのは当時珍しい存在だったのかもしれません。なにしろ主人公の飼い犬を縛って焼却炉で燃やしたりと、いきなり非道の限りを尽くしたのです。

 ほかにも、漫画家は「ウルトラマンとゴジラが戦ったら、どっちが強いかな?」というようなことを、ものすごく考えます。「スタローンとシュワルツェネッガーはどっちが喧嘩強いか?」といった発想で物語を作っていくんです。

 ところが、「誰が強い」「誰が悪い」「どういう人がムカつく」ということを、毎日考えていると、どうも一枚看板ではやっていけないというか、「キャラクターを一つの面だけから見ていてはおかしいな」という思いに行き着きます。「白と黒だけじゃだめだな」と気づく瞬間があるんです。物語の登場人物というのは「なぜそんなふうに行動して、どうしてその仕事に就いているのか?」とか、「どういう理由でその敵を倒そうとしているのか?」みたいに、動機がとても重要になります。それを単純化した勧善懲悪で決めつけてしまうと、ストーリーは行き詰まってくる。

 そのように悩み抜いて生み出した悪役がDIOなのですが、不老不死の彼は、とにかく「俺」を中心に考え、行動します。彼の世界には「俺」と「俺以外」しか存在しない。世界を征服したいわけではなく、自分の行動圏内で家族とか恋人とか仲間とか、そういう社会的な幸福観を全否定して、「俺」の存在を実感できれば欲求が満たされるんです。

 それに対してジョナサンには、家族、血統、継承などDIOとは対照的な価値観を背負わせました。ただし、第三部の主人公・承太郎(ジョナサンの玄孫)とDIOには、漫画のオーソドックスな対立軸から見れば、善と悪でありながら、「時を止める」という特殊能力を双方にもたせました。同質の力をもつこともあって、ジョースター家(主人公の家系)はDIOにとっては消し去りたい、粛清したい対象となっています。一方で承太郎は一刻も早くDIOを滅ぼさないと自分の母親が死に至るという状況下で戦っている。とにかく双方が動機に対して前向きなんです。DIOは決して、「面倒くさいからもう破壊活動やめたいな」というふうには考えない(笑)。「この道が正しいんだ」という確固たる信念をもっている。DIOがもつ悪の魅力の根底にはそういうものがあったのだと思います。

悪の根源は恐怖にあり

 『ジョジョ』の原点には「吸血鬼もの」があります。怖さというのは悪に由来するとは限りませんが、サスペンスを盛り上げてくれる重要な役割を担っています。それは同時に、悪役を一味違うものにするための最高の調味料になりえます。「何が一番怖いんだろう」と考えたときに、腕力が強くて乱暴な人が怖いのか、無敵の武器を持っている人が怖いのか、いろいろと突きつめていくと、身に覚えのない、先祖の呪いみたいなものが襲ってくるというのは、奥深くてとくに恐ろしいなと気づきました。

 そういうところから、『ジョジョ』は始まっています。気づかないうちに呪われていて、時代を超えて迫ってくる恐怖を、「吸血鬼もの」というアイデアと一体化させてできたのが、『ジョジョ』なんです。連載を始めた八〇年代後半は、『羊たちの沈黙』(原著出版一九八八年)などのシリアルキラーや猟奇殺人を扱う作品が流行り始めた時代でした。別の作品ですが、印象に残っているのは一七年に一度だけ凶行に及ぶ犯罪者の話です。「一旦身を潜めるのに、なんだよ。一七年したら、また行動しはじめるのかよ。いったい何なんだよ」と。存在として恐ろしいし、何をしでかすか理解できない精神の構造が、想像を超えてすごく怖かったです。

 グロテスクなシーンや暴力の描写がなくても、精神的に訴えかけてくる恐怖を描いた映画に、『フロスト×ニクソン』(ロン・ハワード監督、二〇〇八年)があります。デービッド・フロストというジャーナリストがニクソン元アメリカ大統領にインタビューをするなかで精神を蝕まれていく話です。そのジャーナリストは敵役として描かれている権力側に取りこまれ、やられていくんですね。作中のニクソンは、敵に自分は味方だと思わせておいて突き落とすという、狡猾の極みみたいなキャラクターで、強大な悪として見ることができます。

 そして、何より怖いのは「悪魔もの」です。『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督、二〇一八年)などは本当に恐ろしい。一回観ると、家にソフトを置きたくなくなるくらいです。そのジャンルの金字塔は『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督、一九七三年)ですが、これらの作品には「語ることすら許されない」というような怖さがある。語ると呪われる、穢れるとでも言いましょうか。宗教や歴史の闇の中から、時空を超えて襲ってくるような感覚です。理屈抜きに「恐怖はまさしく過去からやってくる」という思いにかられます。自宅の資料棚にホラー・コーナーがあるんですが、悪魔関係のものは一番奥に、タイトルが見えないように伏せて置いてあります(笑)。ゾンビものは好きなので、目につく所にあるんですけど、悪魔ものは身近に置くのも憚られます。たとえ本やDVDであっても存在そのものに恐怖を感じてしまいます。

 悪魔のような存在に、人間界の法律や道徳といった価値観は一切通用しません。もし彼らの行動になんらかの意思が働いているとするならば、それはたぶん、人間たちを懲らしめようということなんだと思います。生まれてきたことに対する呪いと言ってもいい。その象徴みたいな、鬼だとか、悪魔だとかは触れてはいけないもの——怖いですよね。下手に漫画の題材にすると祟られるのではないかとすら思います。

共感を呼ぶ、「悲しい」悪

 昨年、映画の『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、二〇一九年)を観て非常に感銘を受けました。主人公アーサーが、社会に押し潰されそうになっている無情など、共感する部分が多々ありました。まさに今の時代の象徴と言いますか、この時代だからこそ通用する演出だなと感じました。DIOを登場させた八〇年代後半に、社会に抑圧されて報われない生活を送るアーサーのようなキャラクターを描いたとして、読者から共感を得られたかどうかは疑問です。

 とはいえ、『ジョジョ』では一九九五年から連載を開始した第五部で、ギャングの社会を描いています。彼らは、人生に行き詰まって、いわゆる社会悪と呼ばれるような組織に属して、最終的には上層部に裏切られてしまいます。ただし『ジョーカー』と違うのは、『ジョジョ』では主人公が計画的に腐敗したギャング組織を作り替えようとする、希望の物語だということです。

 そのように時代性や社会のあり方によってどんな作品が共感を呼ぶかは常に変化していきます。これまでは考えもしなかったことですが、もし悪役であるDIOが主人公を倒していたらどうなっていたのかとか、すごく興味があります。DIOが勝利していれば、意外にもいま僕たちが暮らす現実世界より良い世の中になっていたのではないかとすら想像します。DIOは日光に当たると消滅する夜行性で、一般市民もみな吸血鬼化させたことでしょう。そうなると暖房なども不要で、エネルギー問題もなかったかもしれないですね(笑)。

 冗談はさておき、どんなに時代が変わっても人間は希望を受け継いでいくことが素晴らしいんじゃないか、ということを『ジョジョ』では言いたいわけです。

 その思いが根底にあるからこそ、善の軸が揺るぎないものになり、DIOが際立って、悪の魅力を発揮したのだと思います。

予測不能な悪と、いまだ見ぬロマン

 実は、理性のかけらもない「悪」にも魅力を感じることがあります。「こいつ、一体どうしたいんだろう」「救いようがないな」と思わせる、何も考えていないキャラクター。悪の中でも「クズ」に分類されるものですね。僕の場合は悪役でも信念とか哲学がないと描いていてあまり面白くないんですが、予測がつかない「クズ」の怖さ、すごさは理解できます。「人間のプライドがないのか!」と突っ込みたくなるキャラクターが出てくる、『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平、小学館)がヒットする時代性は興味深く感じます。

 『ウシジマくん』はマイナスの世界をこれでもかと描き出します。テレビドラマ『ウォーキング・デッド』(米AMC)もそうですが、どんどん救いのない方向に下降していく人間模様が表現されている。『ジョジョ』は善悪の違いはありこそすれ、主人公も悪役も上昇志向なので対照的なのですが、抗し難い面白さがあって、多くの人々に読まれている。そこに現れる「悪」の行動や考えは予測がつきません。自分のことを大切にしない、生まれてきたこと自体を否定する、もっと言えば否定することすら考えていないような人々の物語が描かれているのです。その上、周りの人を巻き込んで、家族をはじめとした社会の仕組みを壊していく。それがただ無目的に破壊しているのか、欲望で動いているのか、まるで「謎」です。そう、「謎」はそれをのぞき込むものを惹きつけるのです。

 「謎」といえば、僕の若い頃はネッシーが代表的な謎だったんですが、「ネッシー、いないよな」という考えに落ち着いたときに、漠然と「この世の終わりかな」と思いました。

 それはなぜなのか。

 「目には見えないけどなんかいるかもしれないな」「宇宙人、地球に来てるかもしれないな」などといったように、未知のものに憧れるのがロマンであり、創作活動の糧にもなります。「エベレストの向こうに何があるんだろうな」とか、京都に行ったときも「嵐山の向こうってどうなってるんだろうな」とか想像して、子供の頃はワクワクしました。そういった未知の世界にこそ惹かれるものがあったんです。それがなくなってしまうと、漫画を創作したり、何か絵を描くにしても寂しいものになってしまう。「そんなに謎を解き明かさないでくれないかな」とすら思ったものです。

 いまではパソコンやスマホで検索すると、なんでもすぐに答えが出てしまって、未知のロマンに出会う機会が極端に減ってきています。そういった状況下で、創作の上では得体の知れない事件に意欲を掻き立てられます。先にお話ししたクズのような悪もそういう存在といえますが、その行動理念は理解不能で、思いもよらない動きをすることがあります。「え? こんなことする?」と我々の想像をいとも簡単に超える存在なのです。それを科学的に解明してしまうことはむしろ野暮なのかもしれません。

 謎に満ちているからこそ、「こんなやつ、悪役に使えそうかな」と思うわけです。漫画家としては、謎やロマンが善で、それが解き明かされてなくなってしまうことが悪だとさえ言えるでしょう。

 善と悪はコインの裏表のようなもので、それはまさに『ジョジョ』の主人公とDIOの関係にほかなりません。長きにわたって多くの方に『ジョジョ』を読んでいただけているのは、その表裏一体のあり方にこそ人間のテーマが見え隠れするからではないでしょうか。


あらき ひろひこ 漫画家。一九六〇年、宮城県生まれ。『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)を一九八七年から執筆、シリーズ最新作『ジョジョリオン』を「ウルトラジャンプ」(集英社)で連載中。著書に『荒木飛呂彦の漫画術』『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(共に集英社新書)など。


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