interview 高橋一生
ドラマ『岸辺露伴は動かない』で岸辺露伴役を務めた高橋一生は、「荒木先生の書くセリフは僕の指針になっています」と語るほど、『ジョジョ』という作品に強い思い入れを抱く。役者である彼はいったい『ジョジョ』をどう読むのか。そして、『ジョジョ』のどんな部分にそんなにも強く惹きつけられるのか。話を聞いた。
――ドラマ『岸辺露伴は動かない』第4、5、6話を演じられた感想を教えてください。
露伴自身はタイトル通り、“動かない”といいますか。物理的に動いてはいますが、あくまで物語は露伴の外側からやってきて、好奇心をくすぐられる“餌”に露伴が釣られていく。抑えきれない興味に突き動かされる露伴が、それぞれのエピソードで描かれていました。そして、その“餌”の種類が毎回違います。各話とも、前回から変わらないスタッフの方々、豊かな人物造形を持ってきてくださる共演の俳優さんがいらしたからこそ、それぞれ特色ある話が際立ちました。
――第4、5、6話の物語も、前回同様にオリジナル展開も交え全3話で繋がりのあるエピソードとなっていました。演じる際に意識したことは?
まず、今回に関しては前回に比べて芝居の出力をすこし大きく取っています。癖や節もあえて過剰にしています。日常を生きていても、人は接する人間や状況によって態度が変わります。会話がオーバーになったり、フラットになったり。それは日常では当然ですが、こと芝居や作品になると受け入れてもらいにくいものです。露伴にとっても、出会う怪異が違えばアクション、リアクションも変わります。敢えて端的に伝わりやすく云えば、「露伴、人変わってないか?」にならず「露伴、こういう時はこうなるのか」と、人間として生きていることの説得力を出しつつ、それに伴う“露伴ぽさ”を更新したかった。そういったことを考えて臨んだ、六壁坂にまつわる怪異譚でした。
露伴も印象的に使っている言葉ですが、『リアリティ』というものは、個々人の体験に依存しています。原作でも蜘蛛の味を見たり、ドラマの第1話でも自身の漫画に一言だけ登場する泥棒のセリフの為に泥棒を読むシーンがありますが、つまり彼がしているのは自分にとっての非現実を現実にする行為です。僕自身も俳優として、それに限りなく近いことをしていると思いますし、誰かにとっては「(想像できないから) リアリティがない」、誰かにとっては「(体験したから) 誰が何と云おうとリアルだ」、という考えの対立はいずれも稚拙に感じます。想像力の乏しい、体験の少ない相手にも共感をしてもらうには、体験に近い疑似体験を見てもらうしかないと思ってきました。ただしこの匙加減は微妙です。ついて来られなくなってしまうと意味がない。僕に出来ることは、芝居によって自他に対して説得力を持たせることなので、前回から今回の連続性をギリギリに保ちながら、ここからここまでの世界観、と決めつけられる前に、『岸辺露伴は動かない』シリーズのリアリティを広げたかったという思いも強くありました。(演出の渡辺) 一貴さんとは撮影合間に「(ドラマ『岸辺露伴は動かない』の世界は)『ジョジョ』の世界が一巡したのちに、分化した世界の一つの杜王町なのかもしれない」ということを話していました。ある世界線の杜王町では、康一くんや鈴美がおらず、“黄金の精神”を持っているのは露伴と、もしかしたら泉くんや、十五になるのかもしれない、と。もちろん、これから先に鈴美や康一くんらが出てくる可能性もありますが、露伴のキャラクターに対するアプローチとして、“何巡かしたある世界線の岸辺露伴”と捉えることで、僕の中で一番腑に落ちる解釈になっていきました。例えば、彼が既にスタンドの体験をしていれば「ギフト」ではなく「スタンド」という表現の仕方をするはずですが、今作では「ギフト」です。ドラマでの露伴にとって自身の能力は「自分が与えられた独自のもの」という認識から来たものだろうと。そう考えることで原作と微妙に話が違うことも腑に落としやすくなりました。原作エピソードと近しい出来事はやってきますが、あくまでドラマの世界線の露伴がそれとどう対峙するか。そうすると原作との違いに違和感を抱くことはありません。いかに“岸辺露伴”という魂が同じであるかということは注力しました。
――どういうきっかけで渡辺さんとそのお話をされたんですか?
全話を通してその都度ですが、特に第2話「くしゃがら」と、第5話「背中の正面」を撮影しているときが印象的でした。もともと「背中の正面」のエピソードは原作だと第4部『ダイヤモンドは砕けない』の「チープ・トリック」で描かれたものであって、『岸辺露伴は動かない』のエピソードではありませんが、「こう考えれば話は繋がりますね」と。スタンドは「幽波紋」と書きますし、スタンドという概念がない世界線では、幽霊や怪談、怪異というものに落とし込まれていても不思議はありません。3つのエピソードを「六壁坂の怪異」としてひとつにまとめられた(脚本の)小林靖子先生はとても巧みに世界を作られたと思います。
――なるほど。
今回、「背中の正面」というタイトルは荒木飛呂彦先生が考えてくださったと伺っています。荒木先生が「チープ・トリック」を今作の『岸辺露伴は動かない』の世界線に持ってくることをOKしてくれたのだと思えて、非常に心強くありました。そう考えると、原作漫画や小説も、「それぞれの別の世界線の露伴」という捉え方もできます。例えば、露伴は電車に乗るイメージが少なかったのですが、「月曜日 天気-雨」のときは普通に電車に乗ろうとしていたり。別冊マーガレットに掲載された「D・N・A」では、今までに見たことのない雰囲気だったり。全部のエピソードを照らし合わせていくと、“露伴の成長”だけでは言い表せない何かを感じるときもあります。「どの世界線の露伴なのか」と考えたほうが、僕の中では筋が通ることもありました。顔が微妙に違うのも、きっと荒木先生がそのときに描きたい人物のフォルムなのかと思うのですが、普通なら別人に見えるはずなのに「岸辺露伴だ」と認識できる。それぞれどこか違う部分はあれど、根底に流れる精神が“岸辺露伴”なんだと感じます。それはほかの漫画ではありえないエネルギーだと思いますし、僕に勇気を与えてくれもしました。Ifの世界線がたくさんあって、その一部の露伴を僕はやらせてもらっているのだと思っています。
――ドラマの露伴は、「ドラマの世界線における露伴」なんですね。
はい。ですがどの世界線においても、避けて通れない運命はあると思っています。原作で右足にケガをするなら、たとえ世界線が変わっていても必ず右足にケガをしてしまう、というような。世界線が違っても、「“露伴”じゃなくてもいい」と自分で思ってしまうようなことは避けたかった。露伴でなければ対峙できないこと。杜王町でなければいけないこと。加えて「スタンド」ではなく「ギフト」という名前であることにも必然性はつけたいと思っています。『ジョジョ』の世界観と、岸辺露伴であるということからは当然ながら外れてはいけないと、常に意識しています。
――長く『ジョジョ』を読まれてきた高橋さんならではの捉え方ですね。さて、ここからは『ジョジョ』シリーズ全体に対するお話もお聞かせください。高橋さんはウルトラジャンプ2020年12月号のインタビューで、「『ジョジョ』はキャラクターの心の動きが“ホップ・ステップ・ジャンプ”じゃないところが面白い」とおっしゃっていました。シリーズ全体で特にそう感じたエピソードは?
随所にありますが、チンチロリン勝負(『ダイヤモンドは砕けない』「ぼくは宇宙人」のエピソード)でしょうか。露伴が指を落としかけるまでのストロークが、ある意味真に迫っていると思っています。指にGペンを突き刺す行動を起こしたあとに、いかに仗助になめられるのが嫌かと説明をする。まさに、“ホップ”からいきなり“ジャンプ”をしたあとに“ステップ”のことを話しています。前述のように個々人でリアリティが違うのは当然ですが、このシーンは僕が好きなリアリティの一つかもしれません。「ジャンケン小僧がやって来る!」のトラックの前に飛び出すシーンも然り。露伴の中ではもちろん“ステップ”となる思考があって“ホップ”から“ジャンプ”への筋道は通っていますが、第三者の視点だと「!?」となるような。僕はお芝居をさせていただく度に、同じようなことを感じています。人間は“ホップ”からいきなり“ジャンプ”に飛ぶこともある。そのとき、“ステップ”を表現するのはナンセンスだし、それをどう捉えるかは見る側の想像力に委ねたいと。そういった描写がたくさんあることが、僕が『ジョジョ』を好きな一つの理由なのかもしれません。
――本記事のグラビアでも、「ジャンケン小僧がやって来る!」が収録された第40巻を撮影アイテムとして選ばれていましたね。
「ジャンケン小僧がやって来る!」は、(ドラマの) 続編をやらせていただけるなら露伴を通して体験したいエピソードです。「富豪村」や小説の「夕柳台」もそうなんですが、子どもや老人と対峙したときの露伴がいつにも増して好きです。大人げなく真剣に戦う様子、相手が子どもだろうが、老人だろうが関係なく、対等な人間として勝負する姿は素敵だと思いますし、良い性格だと思います。「性格が悪い」と言ってしまうには勿体ないというか、語彙が乏しい表現になってしまうので避けたいというか。露伴と自分に乖離が起きるようなことは考えたくありませんでした。僕だけは露伴に嫉妬をしてはいけないので。
――露伴のほかに好きなキャラクターはいますか?
『戦闘潮流』のカーズはとても好きです。カーズはあれだけ全能に近づこうとしているキャラクターですが、ある意味一番人間らしい。純粋にそこに向かっていこうとする姿が、なんだか子どもの様です。プッチのほうがよほど世界を俯瞰で見ている神のような存在に感じています。カーズのそういうところは、DIOにも共通するのかもしれません。波紋で戦っている頃の物語は、スタンドが登場した以降とはまた違った面白さがあると思います。また、僕は『スティール・ボール・ラン』が大好きなんです。物語として非常に完成されている気がしていて。ジョニィの足が動いていくようになる一連の物語の流れは泣けてきます。たぶん、この部に出てくるキャラクターに悪はいない。皆それぞれに自分の信念のため動いている。そこにブレがないから、どの人物にも強く心を惹かれるのかもしれません。
――ウルトラジャンプのインタビューでも、『スティール・ボール・ラン』に出てきた「『納得』は全てに優先する」というセリフに共感するというお話をされていましたね。
僕は「自分がどれだけ納得するか」こそが説得力だと思っています。それを根底に据えてお芝居をしてきているので、その言葉は大事にしています。今の時代、制作する側がSNSのリアクションを気にして萎縮してしまっている現場が多々あるように感じます。自己満足、と言われるものもありますが、どんな作品においても一人で作ることが出来ない作品というものにそもそも自己なんてありません。自分“達”が作るものに自信を持つのは当然のことだと思いますが、結果あらゆる作品が平均化されてしまっている。僕は平均化されていないことが大事だと思っています。それは作品としてだけではなく、芝居においても意識するところです。露伴が原作の中で「誰も読まないんじゃあないかと思って不安な気分がだんだん大きくなるからさ。そして来週は誰も読んでくれなくてひょっとしたら何を描いていいかわからなくなって何もやる気がなくなるんじゃあないかと不安になるのさ」と言っています。これは芝居をする役者はもちろん、あらゆる作り手と言われる側の人間が、作品を大衆に発信する時よぎる不安だと思いますが、僕は受け取る側依存の台詞として捉えることは違うと思います。その不安があるからこそ、受け取る側依存をせずに自信を持って信じるものを作るべきだと言っているように聞こえます。ドラマの第3話(「D・N・A」)でも、普通に対する露伴の考えが出てきましたが、そもそも、普通の定義は人それぞれです。個性が大事と表向きは綺麗事を並べている人間ほど、世間の顔色を伺いながら突出した個性を殺してそれこそ平均化されていきます。お芝居をする以上は、役が個性的になりえる人間性であればあるほど魅力を感じるので、僕が選ばせていただいている役は基本普通ではなく、ある種個性ある突出した人間です。人間は本来そういった生き物ですから、集団として同調し、共有していく人間には向かないし、向けていないお芝居をしているだろうと自覚しています。周りに馴染んでいるようであっても孤独な瞬間を持ち、生きることに向き合っている人の共感や勇気になれば良いと思っています。僕が露伴を通して「この生き方で良いんだ」と思えたように。どの現場でお芝居をさせていただくときもそうですが、自分が納得できるかどうかを大切にしていますし、常にスタッフの皆さんと話しながら作るようにしています。自分にとって気持ち悪いと思う感覚が大事なので。そういったさまざまな意味で、ドラマ『岸辺露伴は動かない』の現場は、「自分たちがいかに納得できるか」を追求できる、幸福な現場でした。
――高橋さんの役者観と『ジョジョ』の中に流れる精神性には共通した部分があるんですね。
荒木先生が書く台詞は、僕の中で指針の一つになっています。僕は『スティール・ボール・ラン』ではジャイロ・ツェペリが好きなんですけれど、彼が言っていた「一番の近道は遠回りだった」という言葉は、正否は人それぞれだと思いますが、僕にとってとても欲しい言葉だったのは確かです。荒木先生だけではなく、好きな作家の言葉からこれでいいんだと後押ししてもらえることが多々あって。そういう積み重ねの結果として、僕の精神の根幹は作ってもらえたと思うので、荒木先生の言葉はびしびしと刺さっていたと思います。
――さて、歴代主人公で特にお好きなのは?
難しいですね……。主人公と言っていいのかわからないですが、ジャイロが好きです。ツェペリ家の人は第1、2部でもジョースター家の師匠のような存在でしたけれど、『スティール・ボール・ラン』ではある意味、ジャイロが精神のバトンを渡している気がしています。ジョースターの血脈だと、ジョルノが好きです。静かで、淡々としていて、傍から見ると何を考えてるかわからないけれど、彼の中では完璧な筋道が通っていて。本人は焦っていても、見る側からは「先を見越しているのでは?」と思えるくらい冷静です。腹の括り方が美しいと思います。また、ジョナサンのいかにも少年漫画の主人公といったクリーンな感じも好きですし、承太郎さんは憧れでしかありません。仗助も好きなんですが、彼は僕からすると少し複雑ですね。最高にグッときますが、クソッたれ仗助ですから。やっぱり絞り切れません。
――では、露伴以外に、役者として気になる・演じてみたいと思うキャラクターは?
『ジョジョ』の登場人物で露伴以外のキャラクターを演じたいと思ったことはありません。露伴一人で、僕はたっぷり時間を使ってしまいますから。今回のエピソードを経て、自分の中でドラマの露伴像を確立できてきたのかなと思います。もちろん原作は尊重しつつではありますが、前回に比べて、より露伴を腑に落とせていたと思います。僕の中で思い入れが強いのは、やはり第4部です。週刊誌で一番読んでいた時代でもありましたし、何より登場人物がほとんど全員日本人だったところが大きかった。第3部では承太郎が主人公ではありましたが、周りはほぼみんな外国人だったので「やっぱりかっこいいのは外国人か」とどこか思っていました。もちろん外国人のかっこよさを否定するわけではありませんが、その当時はファッション誌のモデルさんも殆ど外国人だったので「そりゃあ外国人が着たらどんな服だってかっこいいだろ」と。そんなときに、あえて杜王町を舞台にして、登場人物が日本人の物語が始まったことの興奮は今でも覚えています。荒木先生の描く人物は、その後も少しずつ日本的な要素が加味されていっている気がしています。登場人物の等身も体型も、マッチョな体型だった初期のころに比べて、近年はよりリアルに近づいてきていますし、女性のフォルムも、性を感じさせないモデルのような体型から、性を感じる生身の人間にまで来ている気がして。なんだか、どんどん魂が宿る感じになってきているように思えるんです。
――熱い『ジョジョ』トークをありがとうございました。それでは最後に、読者へメッセージを。
ドラマ『岸辺露伴は動かない』第4、5、6話、気に入っていただけていたら幸いです。一貴さんとは第1、2、3話の放送後、「外の目を気にせずにとにかく自分たちが納得のいく形だけを追求した結果、いい反響をいただけるのはなんだか不思議だよね」という話をしていたんです。今回は続編ということもあって、前回以上にスタッフ一同真摯な気持ちで臨んだ現場でした。僕も『ジョジョ』が好きな人間の一人ですので、世界が何巡していたとしても、原作ものだけではなく、作品に対する敬意はドラマの作り手として常に持っていたいと思っています。もしまた続編があったときは、どうぞよろしくお願いします。
高橋一生 TAKAHASHI ISSEY
1980年12月9日生まれ。東京都出身。
ドラマ、映画、舞台など幅広く活躍している。
近年の出演作にドラマ『天国と地獄〜サイコな2人~』(21)、『恋せぬふたり』(22)、映画『ロマンスドール』(20)、『スパイの妻』(20)、『るろうに剣心最終章 The Beginning』(21)などがある。2022年春放送予定のドラマ『雪国 -SNOW COUNTRY-』(BSプレミアム・BS4K)に主演する。