荘厳なフレスコ画の下、ピンクや緑の原色が躍る。なまめかしくきらびやかなイラストの数々は、古都に異空間を生み出した。
ルネサンス文化が花開いた街、イタリア・フィレンツェ。ここで今年6月、個展「マンガ・エキシビション」が開かれた。会場は、主催した高級ブランド「グッチ」所有の洋館。創業時の工房だったという場所に、世界で累計8千万部を売り上げた代表作『ジョジョの奇妙な冒険』の原画、約60点が並んだ。
「絵を描く人間にとって、あこがれの街。ダビンチやミケランジェロが歩いていたかと思うだけで、胸がいっぱいなのに」。タキシードに身を包み、歓待を受けながら、唇をかみしめた。
この街で生まれたグッチとのコラボレーションは、2年前に始まった。日本に留学の経験があるパトリツィオ・ディ・マルコ社長が、その鮮やかな色彩に心打たれた。社長の発案を受けたクリエーティブ・ディレクターの手により、華麗なイラストが今年1月、世界70以上の店舗を彩った。
同社のチーフ・マーケティング・オフィサー、ロバート・トリュフス氏はこう評した。「グッチも漫画も、人の手が生み出すクラフトマンシップのたまもの。荒木さんの作品は、すべての文化とシンクロするアートだ」
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イタリアは「作家性の原点」だ。初めて訪れたのは1988年末。当時の週刊少年ジャンプ編集長に連れられての取材旅行で、気が進まなかったという。「当時の関心はアメリカ。ニューヨークとか西海岸のポップな感じだった」
87年に連載が始まった『ジョジョ』は第2部に入っていたが、悩んでいたという。「漫画家は一目見て分かる個性が重要。それが自分の絵にはない、と」
だがイタリアには、迷える漫画家の目を開かせる要素が満載だった。ベルサーチ、ミッソーニ、モスキーノなどの鮮やかな色づかい、ゲイのアーティストたちの性別を超えた感性。フレスコ画の風合いにも圧倒された。そして、じかに見た彫刻群の持つねじれは「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングにそのまま生かされた。「イタリアで、心が決まった」
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『ジョジョ』は、ジョースター家の血縁と因縁を描きながら、第1部から第8部まで、時代や舞台を様々に移してきた。掲載誌も、週刊少年ジャンプから月刊ウルトラジャンプに変わった。四半世紀を超えた連載のテーマは一貫して「人間賛歌」だ。
登場人物が使う超能力「スタンド」を、「人の中にあって断ち切ることのできないもの。それが、表面化して見えてくる」と説明する。自身も、変わらぬ容姿と感性から、ファンに「スタンド使い」と呼ばれる。
14世紀、ルネサンスの巨匠たちは絵画や彫刻で「人間らしい」ギリシャやローマの古代文化の復興を表現した。そして21世紀。この日本の漫画家は、自ら握るペンひとつで世界の読者を魅了する。
(文・石田博士 写真・ルット・ミリアム・カルメリ)
【写真説明】
展示する原画や壁の色は、グッチ側が選んだ。ルネサンスと漫画の出会いを目にして、自然に背筋が伸びた=イタリア・フィレンツェのグッチ・ショールーム
自宅の仕事場で。作画にコンピュータは使わない。東京都世田谷区、郭允撮影
――芸術の都、フィレンツェで個展が開催されました。漫画を超えて、アートですね。
とても不思議な感じ。名誉ですね。日本人だけどルネサンスの画家の技法とかを勉強して、取り入れて描いてるんで、その辺りがなじんでいるのかもしれないと思いました。でも、漫画家の仕事というのはある。漫画を描いて、雑誌に載せて頂いて、それを売るということ。そこはやっぱり超えちゃいけない。
――イタリアは、荒木さんに大きな影響を与えていますね。
色づかいや組み合わせ。ショック受けましたね。ゲイの人たちの感覚も。男性なのにエロいというか、女性的な靴とか履いてる感じで、組み合わせが異様だった。ボタンがカミソリだったり、安全ピンとか。ありえないんですよ。
もう20回以上来ています。好きな街はローマやナポリ。キリスト教が浸透する以前のローマ帝国の文化が好きなんです。多神教とか、日本人に近い気がして。
●漫画のことだけ
――「ジョジョ」は「ドラゴンボール」「聖闘士星矢」「北斗の拳」など人気作が居並ぶ87年に連載が始まり、25年を超えました。着想のきっかけは。
初代編集者の影響がすごく大きい。「メジャー誌でマイナーをやろう」という人で。人の描いてないところをやらなきゃダメだ、と。「渋沢龍彦を読めよ」とか。
――みずみずしい感性を保てるのはなぜですか。
漫画のことばかり考えているからかな。人間関係のしがらみや上下関係にも縁はないし。10代や20代の子が興味を持っているものがあれば、自分の感覚にないものも、見るようにしています。ゲームとか。最近だと「あまちゃん」。
――登場人物に外国ミュージシャンの名をつけるなど、洋楽の影響も大きいですね。いつも音楽を聴いて執筆されるのですか。
いま聴いているのは「ダフトパンク」のニューアルバム。CD店の店員が直筆で書いたメッセージを重視して。その熱さで買う。ネットの批評はうそ臭くて。
――ネットでは、ご自身の若々しさも都市伝説化しています。「毎日、冷水シャワーを浴びる」とか。
あんまり考えたことないんだけど。身長も体重も、デビュー当時からあまり変わっていません。(冷水シャワーは)昔はね。今は心臓に悪いかもって。
●泣きながら描く
――日々のスケジュールは。
週休2日で金土は休み。週刊の頃のまま。朝10時に起きて11時に仕事を始める。夜12時に仕事を終えて、午前2時か3時に寝る。
昼に2、3時間、休憩を取って毎日ジムに行く。姿勢を伸ばさないと腰痛や腱鞘炎(けんしょうえん)になるので。ジムでは毎日3キロ走ってます。
――華麗な色づかいに魅せられるファンも多いです。
「地面をピンクに塗ってもいい」と教えてくれたのは、ゴーギャンの作品でした。実際の色と違ってもいいんだ、と。小学生や中学生の頃からやってました。
――物語の結末は、前もって考えていないそうですが。
でも、週刊の漫画家は全員そうですよ。来週どうなるか分からない。読者によってストーリーが変わるから。
――伏線をどう回収する?
キャラクターが、自然に着地する。人間と一緒で未来は予測できない。作者がキャラクターの動きをコントロールすべきではない。絶対わざとらしくなるから。
キャラクターがポロッと言ったセリフに「何ていいやつなんだ」と思うこともある。
――「ジョジョ」では、主要な登場人物が死ぬ場面も多いです。
いっつも泣きながら描いてます。死ぬ場面は本当につらい。「ああ、はかないな」と。
――連載中の第8部「ジョジョリオン」は被災地が舞台で、記憶喪失の少年が主人公です。東日本大震災で日常を断ち切られた日本人すべての映し鏡にも見えます。
それは、偶然なのかな。発想としては、(記憶喪失の情報部員が主人公の)映画「ボーン・アイデンティティー」とか。記憶喪失の少年が流れ着く、というのは震災前に決めていたので。
――震災当日は。
東京の家にいました。前日に、(第7部)スティール・ボール・ランの原稿を描き終えてたので、さあ来週からっていう頃だった。
――なぜ被災地を舞台に?
(仙台がモデルである)杜王町を舞台にすると決めて、ストーリーの打ち合わせをしていた。触れないわけにいかなかった。
――舞台を変えようとは思わなかったのですか。
気は使ったよ。でも触れないのは絶対おかしいな、と思って、あの描き方になった。
――ご出身は仙台です。
父方の親戚の家は津波で流された。死んだ者はいなかったけど。
――震災で、何かが変わりましたか。
漫画家について改めて考えた。何ができるか考えたら、やっぱり漫画描くのが漫画家かなと。被災地に対する態度というか。描き続けることがやるべきことかな、と。
――作品で、元気を与える。
それが漫画だったり、絵描きだったり、ものをつくる人の目的なんだろうな、と思います。
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■プロフィル
★1960年、仙台市生まれ。「子どもの頃は、イカダを作って海に出ていた。海を見るとロマンが広がる」
★小学2年の頃、漫画を描き始める。雑誌を自作。「編集者のような批評をしてくれる友人がいた」。高校1年の頃から週刊少年ジャンプに投稿。同年代のゆでたまごが78年、高校生ながら「キン肉マン」で大ヒットしていた。「あせりを感じた」
★80年、週刊少年ジャンプ第20回手塚賞に「武装ポーカー」で準入選。83年「魔少年ビーティー」初連載。87年、週刊少年ジャンプで「ジョジョの奇妙な冒険」連載開始=写真は88年ごろ。
★2003年にパリで個展を開催。海外での評価については「実感ない」。
★11年8月、ファッション誌「SPUR」に、グッチ設立90周年と自らの執筆30周年を記念した「岸辺露伴 グッチへ行く」を執筆。グッチと初のコラボ。「漫画の熱さと違って、テーマがクール。最初は『そんなの描けるの?』と思った」
★12年7月に仙台、10月に東京で原画展を開催。13年6月、イタリア・フィレンツェで個展開催。