UOMO web (December 2022)
Isao Tsuge (December 2022)
Interview Archive
An interview by UOMO web with actor Issey Takahashi about the character Rohan Kishibe and the Thus Spoke Kishibe Rohan drama. The interview was released on December 19, 2022.[1]
Interview
――2020年末から始まった「岸辺露伴は動かない」シリーズが今年もやってきました! もはや年末の恒例となりつつありますが、第3期となる今回はこれまでと違って2話のエピソードとなり、第7話が「ホットサマー・マーサ」(「JOJO magazine 2022 SPRING」より)、第8話が「ジャンケン小僧」(「ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない」より)となっています。このラインナップに決まったとき、どう思いましたか?
高橋 「ジャンケン小僧」に関しては、第1期のときから「やれるといいね」と言っていたので、「ついにきましたか」という感じはありました。「ホットサマー・マーサ」に関しては、このエピソードがくるとは全然想像していなくて、しかも「ジャンケン小僧」の前の第7話でやると聞いて驚きました。「ホットサマー・マーサ」は今年(2022年)発表された新しいエピソードであって、「初期の露伴と、つい最近の露伴をこんなふうに並べるのか」と思ったんです。結果的にとても面白いラインナップになったなと思います。
――「ホットサマー・マーサ」が早速ドラマ化されることについてはどのように思いましたか?
高橋 僕の中での露伴は、杜王町で仗助たちと一緒にいた頃のイメージでした。偏屈で、変人で、奇人で、けれど一本芯の通ったところはある。彼は彼なりの“黄金の精神”を持っていて、そういった露伴の人間性のようなものを意識してこれまで演じてきたんですけれど、特に近年の荒木先生がお描きになっている話はキャラクター性が膨らみをどんどん増していて、「こういう側面が出てきたんだな」と感じることが多々ありました。
僕の中では、岸辺露伴という人間が涙目のような表情になるシーンは想定していなかったですし、バキンという子犬を飼うということすら当初のイメージにはなかったんです。なので、「ホットサマー・マーサ」での露伴の人間性は、僕の凝り固まった露伴像というものを何だか崩してくれるエピソードで、「露伴にはこういうところもあるんだ」ということを気づかせてくれたというか、露伴を1人の人間として膨らませていくうえでとてもいい作業をさせていただけたと思っています。
――「ホットサマー・マーサ」は、第6話の「六壁坂」とも通じる怪異ものですが、一生さん自身はどういう作品だと思いますか?
高橋 怪異というもののベースにあるのは、やっぱり人間の恐怖心なんじゃないかと思います。出どころは常に人間なんじゃないかという思いがあるので、「ホットサマー・マーサ」を読んだときに非常にいい収穫だったなと思いましたし、自分が望んでいた世界に、こうして岸辺露伴としていられることの幸運を感じました。
怪異は怪異として存在するんでしょうけれど、そこに観測者がいないと、何が起きているのかはわからないわけです。そういうふうにして怪異というものは語り継がれ、存在してきたんじゃないかなと僕は考えています。
なので、すべてのことが自分とはまったく関係のない話というふうにはとらえられない気がしていて。もしかしたら状況や場所が後押ししてしまうこともあるんじゃないかなと考えるほうなので、何事も決めつけないようにしようという感覚は持っていますし、そのことは今回の「ホットサマー・マーサ」に限らず、荒木先生の作品から常に教えてもらっています。
――「ジャンケン小僧」がやりたいということは昨年のインタビューでもお話しされていました。実際に映像化するにあたって何か意識したところなどがありましたら教えてください。
高橋 小林靖子さんがお書きになっている脚本は、もう完璧だと僕は思っていて。実写化するに当たって必要な要素と、原作ファンの方々も納得できるようなエピソードになっています。子どもだからしょうがない、子どもだから大目に見るという感覚は、露伴には一切ありません。僕もお芝居するにあたって、子どもだからということを全部排除して臨みました。
例えば、柊木(陽太)さん演じるジャンケン小僧に圧をかけるシーンでは、「これをやったら崖っぷちなんだけど、お前、崖っぷちってわかってる?」という心理的プレッシャーをかけるんですけれど、背に腹は代えられない状況になったら人間は誰でもそうなると思いますし、それを初動で出せる岸辺露伴という人間は、僕はとても素敵だなと思います。最初から全力で当たろうとしている露伴の強さは見習いたいです。僕自身もとても影響を受けていると思います。
――「ジャンケン小僧」は、表向きは露伴が子供とジャンケンで小競り合いしているように見えるけれど、その背後には信念を持って運命と戦っていくことが描かれています。一生さん自身、運命というものに対してどう向き合っているんですか?
高橋 運命は起こるべくして起こるものだと思っているので、自分が作為的にアプローチしようとすると、たぶん敵わない気がするんです。少なくとも勝利することはおろか、太刀打ちすらできないような気がしていて。だから、一旦受け入れて、そのうえで咄嗟に手が出てしまうものや、反射的に取ってしまう行動を大事にしようと思って、今までやってきました。
運命めいたものは何か必ず意味があるものなので、それをないがしろにしないで一度受け入れるという意味では今回の露伴も同じだと思います。露伴も「今、何が起きているのか」「自分に課せられている命題は何なのか?」を一旦ちゃんと受け入れて理解しようとする。起こることに対してことごとくまじめにリアクションするのは、とても難しいことです。「いや、それはたまたまだ」「偶然起きただけだ」と流すことは多いと思いますが、僕も露伴も「これは何か意味があって起こっていることだ」と考える。そこは似ているのかなと思います。
――単なるジャンケン対決をここまで深く、面白く描いた作品はなかなかないですよね。
高橋 荒木先生がすごいなと思うのは、「ジャンケン小僧」は週刊少年ジャンプに掲載されていて、当時の少年誌は“鍛えれば鍛えるほど強くなる”という“脳筋理論”が多い中で、感覚的なもので勝っていくというストーリーにされたこと。だから、相手は少年にしたんだと思うんです。ムキムキの人がジャンケンしていても、絵としては楽しいですけれど、やっぱり大人が子どもに追い詰められていくほうが面白い。
大人vs.子どもという構図にすることで、力ではなく、運や自分の志で勝負しなくてはいけなくなる。「たかだかジャンケンに何でそんなに熱くなっているの」という話なんだけれど、ここで折れたら、この先ずっと折れっぱなしになってしまう。ジャンケン小僧との対決は露伴にとっては絶対に乗り越えなくてはいけない運命であり、それを美しく、しかもかっこよく描いてみせた荒木先生は本当にとんでもない方だなと思います。
僕もお芝居を通じて疑似体験させていただいたわけですが、たかだかジャンケンであっても、絶対に勝たなくてはいけないという気持ち、そういった不屈の魂のようなものは常に持っていないといけないと思うんです。第1話の「富豪村」でもそうでしたけれど、子ども相手に本気になる露伴を見て、「露伴って子どもだな」とか「子ども相手にムキになっちゃうところがかわいい」という人もいるかもしれません。
ただ、誰もが人生で大なり小なりそうした場面と向き合っていると思うんです。こんなの大したことないというものが牙を剝いてくるときはあるし、とんでもなく巨大な力と対峙しなくてはいけないときだってある。そういうときに最初から全力で走ってないと、もしくは全力でぶん殴らないと、やられてしまうんです。何より自分というものが飲み込まれてしまう。
結局、すべてのことは自分に返ってくるんです。露伴が「この運命を乗り越えないかぎり、こういうことは何度も起こってくる」というようなことを言っていますけれど、最終的には敵の向こうに自分を見ているわけであって、そういう考え方を荒木先生が「ジャンケン小僧」のテーマとして入れ込んできた。荒木先生の真意はわかりませんが、少なくとも僕はそうとらえました。「子どもだから」「余裕だから」などと思ってやっていたら、完全に飲み込まれる瞬間がある。決してタカを括ることなく、いつだって全力でぶん殴るくらいの気持ちでいかないといけないんです。
――「ジャンケン小僧」は原作だと空中戦もあるので、どういう映像になっているのか、本当に楽しみです!
高橋 そこは演出の(渡辺)一貴さんをはじめ、みなさんが考えてくれていますので、どうなるか楽しみにしていてください。エピソードとしては、とてもいい話になっていると思います。お互いの精神と精神がぶつかり合うという意味では、絶対に曲げない少年と、そこを逆手に取って、自分自身と戦っていく男の話という構図が見えてきたらいいかなと。
「すげえな、これ」「これ、笑えねえかも」って思う人たちが増えてくれたら、とてもうれしいなと思いながらお芝居していました。ちなみに、現場で一貴さんからは「本当に大人げないですね」と笑いながら言われました(笑)。「このぐらい全力でやらないと露伴でいられなくなると思うんです」と言ったら、「もちろんその通りだと思います」とおっしゃっていたので、きっととても面白いものになっているんじゃないかなと思います。年末にやっていいことかな?というぐらい、とても大人げないものが観られるはずです。
――ハハハ!
高橋 けれど、その「大人げない」の向こうに何があるかをキャッチしてもらえるのが『ジョジョ』の精神論としても、哲学としても面白いことなんじゃないかなと思います。自分の身に起こり得ない話ではないということを、戯画化、デフォルメしているものではありますが、何かしら感じてもらえたらうれしいです。