荒木飛呂彦三〇〇〇字インタビュー
人間讃歌は変わらないッ!!
閑静な住宅街に建つマンションの一室に、荒木飛呂彦の仕事場はあった。笑顔で取材班を迎え入れてくれた荒木の上着の色は、紫。『ジョジョ』という作品を色で表現するなら紫かなと思っていたので、勝手に驚き、本人に訊ねてしまった。「絵の具を混ぜ合わせた時に、一番楽しいのが紫なんですよ。赤に青を混ぜるといきなり紫に変わる、その、ふあーっと爆発する感じが好きなんですよね」日本が世界に誇る稀代のストーリーテラーは、絵の快楽を誰よりも知る画家であるという事実を、今さらながら再認識した〈すぐれた画家や彫刻家は自分の 『魂』を目に見える形にできる(中略)まるで時空を越えた「スタンド」だ…そう思わないか?〉(「ジョジョの奇妙な冒険PART6ストーンオーシャン』第二巻より)
『ジョジョ』以外描けない
――今年は 『ジョジョの奇妙な冒険』(以下、『ジョジョ」)の連載開始ニ〇周年、現在連載中の第七部が絶好調ということもあり、 『ジョジョ』絡みの話題が目白押しでした。荒木先生一自身もブームを実感されているのではないかと思うのですが、いかがですか。
荒木 最初は「ジョジョ立ち」という、『ジョジョ』のキャラクターと同じポージングをやってる人達がいるよという話を人から聞いて、パソコンでサイトを見たんです。で、あぁ、なんかこれ」fすげぇって(笑)。現代アートだと思いましたね。それから、『ジョジョ」を好きだと言ってくれる芸人さん達が、テレビ番組などで作品を紹介してくれるようにもなって。ちょっと考えたのは、その人達ってみんな三〇代なんですよね。二〇代を終えて、発言力も増すというんですか(笑)。 『ジョジョ』の連載が始まった頃、小学生や中学生だった人達が、才能を発揮し出してきているのかなと。
――上の世代の顔色を伺わずに素直に自分の意見が表明できて、『ジョジョ』で一時間の番組を作れてしまうという(笑)。
荒木 そうそう(笑)。あともうひとつは、『少年ジャンプ 』って、作家をすごく大切に育てる雑誌なんですね。週刊連載に集中するために、作家取材はあまり受けないみたいな雰囲気があったのかもしれないんだけど、僕は普通に受けたりしてたんですよ。そのせいなのかな『ジョジョ』周辺の環境の変化は少しずつ感じました。ただ声を掛けられたから僕も出ていくだけで、ちょっと前までは依頼自体がなかったんですよ。自分から何か仕掛けているってことは全然ないんです。
――『ジョジョ』を二〇年描き継いできたという事実は、今どうお感じになられていますか。
荒木 「新作を描け」って編集者はよく言うんですよ。そのほうが、「 『ジョジョ』の荒木が新作を!」と話題になって、編集部的にはいいんじゃないですかね。で、僕は「えーっ!『ジョジョ』以外描けないんです」と言って「とにかく主人公は変えますから」とそういう感じで二〇年続けてきた。主人公が変わった時は、自分では新連載と同じ感覚なんです。大変なんですよ一からキャラクターを作って、設定も作ってくので。だから、二〇年間、同じ作品を描いてきたという感覚はあまりないですね。
――「『ジョジョ』以外描けない」というのは?
荒木 キャラクターを作る時に、お父さんが誰かを知りたいんですよね。両一親がどんな人で、どんなふうに育てられてきたかを僕はちゃんと知りたい。その部分の情報が入ると、キャラクターが、確かにそこに生まれてくる感じがするんですよね。描いていて、”いる。って感じがするんですよ。そうすると、血統が続いていたほうが父親がはっきりするし、そこが 『ジョジョ』にこだわっている理由ですね。「スタンド」というアイデア(超能力をビジュアル化したキャラクター)にこだわっているんじゃないんですよ。血統でこだわっているんです。
――親への興味、血統への興味は、どんな初期衝動から始まったものなんでしょうか。
荒木 やっぱりどうしても、恐怖マンガを描きたかったんですね。恐怖というか、サスペンスが軸の漫画を描きたかった。そうすると一番強い人は誰かとか一番この世で恐いものはなんだろうとか、究極まで考えるんですよ。本当に強い人間はただ筋肉が強くてパンチが強い人間なのか?どんなに力が強〜ても、弱点を一点集中で攻めてこられたらひとたまりもないよな、とか。……そう考えていった時に、本当に恐いのは、先祖の因縁で、自分には全く罪がないのに襲われることじゃないか伏助とか承太郎って、本人達はなんにも知らないうちに、何代か前の怨念に襲われるじゃないですか。あれが、とにかくこの世で一番恐いんじゃないかなって思ったんですよ。ひょっとしたら、死ぬことよりも怖い。逃れようがない運命の世界というんですか。それもあって、血統というか、血筋みたいなことにこだわってるんですよね。
――改めて荒木さんの言葉で語り直していただくと、それは究極的に恐いことですね。
荒木 そこを追求していくと、哲学の部分も自然に生まれるんですよ。自分でむりやり生み出そうとしなくても勝手に作品に出てくるんですよね。その辺がやっぱり、新連載はできないなぁと思う理由ですね。だからまぁ血統だけ受け継いで、親の遺産だけ受け継いで自分が何かするかなって、そういう感じですよ。スネをかじるだけにならないようにしたいと思います(笑)。
――いえいえ、遺産の資産運用が抜群にうまいと思います(笑)。『ジョジョ』の歴史を見つめたうえで、今の一部で新たに何ができるかという荒木先生の挑戦心を、読者は感じていると思います。
荒木 今連載している第七部に関していうとね、第六部でいろんなものが行き詰まったんですよ(笑)。まず、あれ以上先の未来(西暦二〇一一年)に僕は行けないですね。手塚治虫先生は 『火の鳥』で遠い未来を描いてるんですけど、僕は描けない。現実に、ここにいてほしいんですよね、主人公が。ェアカーが飛んでるとか、二二〇〇年とかは絶対無理(笑)。文明の発達で言えば携帯電話までですね。それ以上の発明品とかが入ってくるような漫画は、自分にとってはファンタジーすぎるんですよ。僕はもっと、リアルな部分がほしい。で、ここで終わりかなと思ったけど、もう一回原点に戻ろう」ということで時間を巻き戻して、一部と同じ一九世紀末を舞台設定で始めてみたのが第七部なんです。そのうえで六部の流れを引きずったり、反省したりして描いてる。だから 『ジョジョ』は第六部までで一度、切れてるんです。
――リアルが大切という話でしたが、では「ジョジョ立ち」に代表されるキャラクターのフォルムというのは……。
荒木 あれはファンタジーですね(笑)。お話をリアルに突き詰めたいぶん、絵の方にファンタジーを入れたいんですよ。漫画の中にリアリティーとファンタジーを同居させたいと考えるu「ジョジョ立ち」みたいなことになる。ミロのヴィーナスとか、イタリアの彫刻がルーツなんですけどね。ちょっと腰が入って、こう(実演中)。こうでいいのに、こうとか。「こう」の部分がファンタジーなんですよ(笑)。ありえない日常のつもりで描いてるんだけど、それをみんなが現実でやり始めてるから面白いよね。現実のほうが、漫画に近づいている。
荒木飛呂彦ができるまで
――御出身は、「杜の都」こと宮城県仙台市だそうですね。
荒木 第四部の舞台、杜王町のモデルになった街です。うちのそばで、埋蔵金を持っていたという噂のおじいさんが、山の裏手の自然公園で殺された事件があったんですよ。しかおじいさんがどこかに金を隠したという噂が今度は流れてさ。そういう、サスペンスとか口マンとかがあるような場所でした。当時シャーロック。ホームズとか、怪人二十面相が流行ってたんですけど、現実の雰囲気とすごく一致してたんです。
――ミステリーな街だった、と。
荒木 結構危険もいっぱいで、子供が池で溺れ死ぬことる年に一回か二回はあったんですよ。犬なんかもうしょっちゅう浮いてたり……。もしかすると、街」じゃなくて、時代的な要因のほうが強いのかな。七〇年代という時代。セブンティーズね。あと、僕はおじいちゃん子だったんですけど、戦時中はこ」うだったんだわって、会うと戦争の話ばっかりされてたんです。戦争を知らない世代みたいに言われましたけど僕は意外と当時との心理的な距離感は一遠くないのかもしれない。漫画家さんとか作家さんって、子供時代に見たり読んだりした経験を絶対ひきずってますよね。
――どんな御家庭で、どんな子供時代を過ごされたんでしょうか。
荒木 双子の妹がいて、きょうだいの中で疎外感がすごくありました。双子だから、見えない緋があるんだよね。兄として、そこに入っていけないんですよ。いっつも僕一人仲間はずれでいじめられてるような気分になってさ。テレビのチャンネル権さえ妹が持ってるからね。だって、多数決になると絶対負けるわけでしょ(笑)。そういう時に、漫画って一人で読めるじゃないですか。絵を描くのも一人でできる娯楽なので、だから自然と、漫画を描くようになったと思うんですよね。
――子供時代に特にハマった漫画は何ですか?
荒木 やっぱり、白土三平先生の漫画ですかね。白土先生の漫画は、忍者の術を理論的に描いてるんですよ。図解したり、手品のアイディアで忍術やったり。ミステリーやサスペンスを好きになった、ルーッだと思います。根性で勝負が決まる漫画、大嫌いだったんですよ(笑)。ここは俺の根性で乗り切った〜じゃなくて、勝つ理由をちゃんと描いてくれ、みたいな。理論的な漫画とか小説が好きだったんです。
――七〇年代に青春を過ごした経験は大きかったでしょうか。
荒木 大きいですね。中学からロックにハマったんですけど、七〇年代って変なバンドがいっぱい出て、これ誰が買うんだろみたいなレコードが意外と売れてたりするから驚くんですよね。普通は、売れるから作るじゃないですか。ヒットするだろうとか。だけどそういうところとは明らかに外れていてジャケットとかも変なんですよ。でも聴くといいんです。一体これはなんなんだと、なんでこんなの作っちゃったんだろうと、そういうことを考えるのが楽しいし、理由がわかった時は快感なんですよね。現代絵画でもそうなんですけど、なんでこんなの描いてるんだろとか思うんですけど、必ずその意味があるんですよ。これはもう、ミスチリーを読む楽しみと同じだと思うんです。
――デビューの経緯は?
荒木 僕が一六歳の時に、同い年のゆでたまご先生がデビューしたんですよ。ちょっと焦ったんですよね、「同い年なのにもうプロなのか!」と。それで、高校三年の時に初めて『少年ジャンプ』に投稿した作品が、佳作入選したんです。そのまま何作か描き統けて、専門学生だったハタチの時に「武装ポーカー」が手塚賞を受賞してデピューしました。編集部に行くとね、例えば車田(正美)先生みたいな漫画た描いて持つていくと、「パクリだ」「他人と同じようなものを描くな」と、とにかくむちゃくちゃけなされるわけ。誰も描かないところを進もうとしたら、こうなりました(笑)。
波紋、スタンド、恋愛
――八七年に『ジョジョ』の連載を始めた時、先の構想は決まっていたのでしょうか。
荒木 構想自体は第三部まで、第一部の敵が第三部で襲ってくるというイメージがありましたね。倒したはずのディオが長い時間を経て復活して、ジョースター家の子孫を襲う、という。人気がなければ第一部で終わるかもしれなかったんですけど、そうなったらまあ、しょうがないかなって(笑)。外国人を主人公にしたり、主人公を部ごとに変えるって、当時の常識からしたらありえないことなんだけど、見切り発車で始めちゃいました。それがこんなに続くなんて、僕が一番驚いてます。
――当時の漫画状況を考えると、第一部、第二部で登場する「波紋」という能力表現は画期的だったのではないかと思うんですが。
荒木 あれはですね、大友(克洋)先生の漫画で、登場人物が超能力でバーンっとものを破壊するじゃないですか。力の始まりからバーンという結果までの間に、もうちょっと絵がほしかったんですよ。エネルギーの描写がほしい。描きたいんですよそこが。それが、波紋なんです。最初は三部まで波紋でいこうと思ってたんですよ。だけど、編集者から「そろそろ波紋じゃない何かに変えましょう」と言われて。あまり長くやっても飽きられるとか、あとは波紋の能力はもう限界だろうみたいな、そういう判断があったんじゃないかな。究極奥義ももう出ちゃってたし、波紋がこれ以上強くなるのは難しいよなって。それで、スタンドを考えたんです。
――スタンドは一人一能力で、強さの価値観がまさに千差万別ですよね。強さの価値観がひとつではないからこそ、「無敵」「最強」の相手を倒せるというロジックが面白いです。
荒木 そこはやっぱり、哲学なんじゃないですかね。自分がこうと信じる、哲学の強さ対決みたいな感じが裏にあるかもしれない。スタンドができた時は、バトルにもいろんなバラエティができるなって、想像力が一気に広がりました。
――『ジョジョ』を読むと、現代日本に暮らす日本人が描き出した物語なのに、普遍的で神話的なイメージを捉えていることに驚くんです。目の前のリアルではなく、その奥の普遍性に手を伸ばせたのはなぜなんだろうと。
荒木 なぜなんでしょうね(笑)。でも、血統は普遍的ですよね。聖書でも、全部血統から始まるじゃないですか。アダムとイブの子が誰と誰でとずーっと行く、家系図の物語で。高校がキリスト教系だったというのもあって、聖書からの影響はあるんだと思います。それと、欧米の小説って、聖書的というか、血統の物語が伝統的にあるんですよ。『エデンの東』とか、僕の時代では『ルーツ』とかね。海外の大作大河小説からも、すごく影響を受けてます。あとはね、八〇年代にデビューした時に、いわゆる『ジャンプ』のトーナメント制で敵がどんどん強くなってく方式が全盛期だったんですよ。それに対して僕は意識的に距離を取っていて、本当の強さって何なのかなとひとりで考えていたから、人間とは何かみたいな、普遍的なテーマにハマっていったんです。でも、第三部までは神話みたいな世界が好きだったんだけど、第四部からは日常的な世界に行きました。隣の友達を描きたくなったんでね。
――別に悪い友達がいたとか、そういうわけではなくて(笑)。
荒木 じゃなくてね(笑)。身近な人、いい人、楽しい人、友達を描きたくなった。第三部から続けて登場する承太郎はまだ神話上のキャラクターって感じなんですけど、仗助と億泰とかはもう、実際にいる友達を描いてるような感覚ですね。だけどちょっと、邪悪な面も持っていたりとか。スタンドってファンタジーなんですけど、人間の裏の顔なんですよ。人間の持っている二面性三面性を表現しているつもりなんです。
――ところで、『ジョジョ』は恋愛要素が少ないですよね。
荒木 それはたぶん、『ジョジョ』がバトル漫画の形態を取ってるせいですね。やっぱりやりたいのはホラーであり心理バトルなので、恋愛が入ってくると、うざったいんですよ(笑)。スカッとしない。ギリギリが(広瀬)康一んと(山岸)由花子さんのエピソード(第四部)とか、あのへんなのかな。
――あれが『ジョジョ』流の恋愛だ恋愛とは格闘だ、と(笑)。
荒木 由花子を描いた時って、僕が結婚して二年目ぐらいの時なんですよ。あのまんまだと危ないけどさ(笑)、結婚した経験が出てきているとは思いますね。ただ単に女の人を出すだけじゃなくて、女の人の裏の顔を描こうとするようになりました。結婚して家庭を持ったおかげで、作品に厚みが出たとは思います。
「生きている悲しみ」の始まり
――第四部から、スタンド使い(スタンド能力を持つ者)同士は「引き合う」というルールが登場します。たいていの物語は、御都合主義的に人と人が出会ってしまうことが多いと思うんですが、その出会いをルール化したというのは画期的だと思いました。
荒木 人と人の間には、逃れられない引力があるんじゃないかという、僕なりのエセ理論というか仮説なんです。人と人が知り合うのって、必然だと思うんですよ。というか、描いているとそういうふうに感じられてくる。そうとしか思えなくなる、というか。誰かひとりの人がいて、例えば悪者を倒そうとしているとしたら、そこには悪者に対して引力があるんですよ。戦う使命というか動機がある場合は、絶対引力があるだろうなと思うんです。だからこそ、主人公に動機がない状態で戦っていると、何描いてるか分かんない漫画になっちゃう。ただ攻めて来たヤツの挑戦を受けて、「やったー、勝った!」みたいな漫画ってものすごくつまんないんですよ。主人公に動機がなくて、親がどんな人か分かんない小説とか映画って、絶対に名作じゃない。その二点は、名作の条件に入ると、僕は思うんですよね。
――殺人鬼は、動機とともに、の問題も大きいですよね。 荒木先生は、シリアルキラー関係の本を読まれてきたということですが......。
荒木 相当、読んでます(笑)。大量殺人者の人生を知るとね、必ずどこかで同情できる、かわいそうな部分があるんです。で、必ず謎がありますね。いくらなんでも、殺し方がすさまじいでしょう。彼らはなぜここまでするんだろうと思うと、そこにはお父さんと息子の関係もあったりして。中には、指示するタイプのやつがいるんですよ。操るタイプというんでしょうか、実行犯を支配下においてね。意外とね、女の人だったりするんですよ。ボーイフレンドを支配下において、愛情なのか何なのか分からないけど、「おまえがやれ」と男に指示して殺させて、金品を奪ったり、ドロドロに溶かしたり。なんで部下になって人殺しをするんだろう、その人はどんな気持ちなんだろうと、それも謎なんですよ。
――今の話はまさにディオですよね。人々の心を支配してしまうカリスマ性を持っている。
荒木 第五部に出てくるマフィアのボス、ディアボロもそのイメージかな。ヤクザのボスの下に、殺し屋の子分がいたりするじゃないですか。そいつ自身は一人でもものすごく強いと思うんですよ。でも、ボスの命令じゃなければ動かない。そこの精神的な繋がりってなんだろうという、これも不思議な謎なんです。で、指示される人、操られている人も、命令されることがその人にとっての幸せだったりする。そういう謎を読み解いていくのが面白いんですね。面白いというか、ものすごく興味がある。
――第五部のボスと対決する、主人公のジョルノは特異な存在だと思うんです。第四部の仗助は、すごく人間味のある、俗っぽいイイやつだったじゃないですか。でも、ジョルノは非常に正義を体現した存在ですよね。濁りのない、光に満ちた真っ白な存在で。彼を造形したのはどういう経緯だったんでしょうか。
荒木 運命に立ち向かっていく人は、そういう感じにしたいんですよ。ルノってディオの子供で、言ってしまえば、忌まわしい生まれなんです。 他の登場人物よりも、生きている悲しみカ 生まれた時から上乗せされているというか。だけど、だからこそ、目指す。悪の世界でのしあがって黒を白に浄化しようという、そういうことなんですよ。第五部から第七部にかけての、生きている悲しみを描くというテーマは、ジョルノの造形から始まっているんです。
――続く第六部のプッチ神父は、人類を天国に連れて行くという心自体はピュアですよね。でも、それが巨大な悪を、とんでもない破壊を呼び込んでしまう。善悪の揺らぎを感じました。
荒木 第七部の「スティール・ボール・ラン」(以下、「SBR」)でも、まだちょっと描ききれてないですけど、大統領ってアメリカを守るためだけに動いてる人間なんですよ。だけどそれがなぜか、悪になったりもする。彼の考え方には僕自身違和感があるし、間違ってる感じがするんですよね。まず、銃で解決したりするところが絶対におかしい。
――第六部、第七部とアメリカを舞台にしたシリーズが続いていますが、九・一一同時多発テロ、イラク戦争などの時代的影響はあるんでしょうか。
荒木 それは当然あるでしょうね。世界情勢のニュースとか見てるとすごくヒントになるし。アメリカに旅行すると思うのはね、すごい矛盾してるなぁって。例えば、山火事がどんどん迫ってきてるんだけど、山裾のリゾートホテルのプールでは、『スター・ウォーズ』を観ながらみんな泳いでたりするんですよ。山火事が迫って来てるのを分かってて、まだ大丈夫だからって逃げないで遊んでいる。その状況をね、日本からの旅行者として客観的に眺めながら、こういう贅沢が山火事を生んでるんじゃないかと僕なんかは思ったんです。西部劇の時代でも同じで、地主が土地に住んでいて、そこにカウボーイが来るといざこざが起こるじゃないですか。「お前はよそものだ、あっちに行け!」みたいなさ。でも、この地主も最初はよそものだった.わけじゃないですか。誰の土地でもないところに住んで、先に来たっていうだけでいざこざが起きて、最後は銃で解決する。いまだにそれじゃないですか。最後は銃を撃つのが速いヤツが勝つって、それはおかしいですね。
――銃に代わるものは、何だとお考えですか?
荒木 難しいね。それが分からなくて、矛盾がいつまでも解消されないから、みんな悩み続けているんじゃないですか。たぶん、もっと根本的なところにいくのかな。聖なるものの存在、とかね。「SBR」では、「遺体」がそういう存在なんですよ。 この先、少なくとも物語の中では、矛盾に対する決着は付けるつもりです。
スタンドは人生の記録
――「SBR」は原点回帰だというお話がありましたが、絵の解像度はぐっと上がり、明らかに進化していると思います。絵のタッチの変更には、どんな意図が込められていたんですか。
荒木 原点回帰にはいろんな意味があって、まず最初に絵をね、古典的にしようと思ったんです。今までは、リアルなんだけど、表現主義(内面世界の表面化を心掛ける絵画様式)っぽい描き方だったのが、もっともっとシンプルにいこうとした結果、いっそのこと、イタリアンルネッサンスを目指そうと思ったんです。とにかく、古典的に描くのが今は新しいと思ったんですよね。デジタル表現に行くより、完全手描きで陰影法を極める、みたいな。昔の画家って自然から学んで絵を描いてたんです。僕もそういう絵で、『ジョジョ』を描きたいって思ったんですよ。でもその絵で行こうとするとさ、キャラクターも昔っぽくなるし、昔ってやっぱり、男主義の世界なんですよね。「男とは何だ」「男は女を守るものなんだ」みたいな。
――荒木さんが熱愛するクリント・イーストウッドの世界ですね。
荒木 もう、わざとらしいくらいの西部劇です(笑)。『ジョジョ』を描く上で一番影響を受けたのはやっぱり、イーストウッドのヒーロー観ですから。たった一人で社会正義のために立ち向かっていって、しかも誰にも認められないんですよ。最近でいうと、マイケル・マンの世界も好きなんですけどね。『24』のジャック・バウアーも最高です。ああいう、男達のプロフェッショナルな世界がもともと好きなんです。だから僕が第七部でやっていることは、絵もストーリー展開も、古典を現代風にアレンジしているだけだと思う。それが今は新鮮なんじゃないですかね。
――荒木先生は連載最初期から、『ジョジョ』のテーマは「人間讃歌」だと表明し続けています。第一部に「人」間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!! 人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!」というセリフがありますが、第七部はそれぞれの「悲しみ」を抱え、生まれ死んでいくキャラクターたちが今まで以上に大挙出現します。彼らに対して「人間讃歌」という言葉を使う場合、意味は異なりますか?
荒木 変わらないですね。結果じゃないんですよ。結果として死んでしまったとしても、勇気を持って、人を救うためにやったその行為がいいんですね。その人は心が成長して死んでいくわけじゃないですか。それは僕の中ではハッピーエンドなんですよ。勇気とか、人間のすばらしさとか、人間はとにかく素晴らしいんだと肯定していることは、連載を始めてから今まで変わりはないです。
――「SBR」の連載は、大陸横断レースの全九ステージ中、六ステージまで終了しました。物語自体も、全体の三分の二は通過したのではないかと思うんですが、そろそろ次の部のイメージも生まれてきているのでしょうか。
荒木 「SBR」を描いていると、自分が本当にアメリカ大陸を横断してる気になって、疲れるんですよ。馬に乗っている時の絵は、自分が本当に馬で走ってるような感じで描いている。体力的に過酷なんです。この間『ジャンプスクエア』(二号)に読み切りを頼まれて、第四部の岸辺露伴(漫画家)が登場するスピンオフ短編を描いたんですけど、ふるさとに帰ってきた気分になって、描いていてほっとしたんですよね。だから次の部は、ふるさとに帰ってくるような話にしたいですね。もう海外旅行はいいかなって(笑)。
――過去のインタビューで、五〇歳引退説や全九部構想説などを語ってらっしゃったんですが………。
荒木 机に座っていられる時間がちょっとずつ短くなってきているんです。描いていると関節も痛くなったりして。 プロスポーツ選手と近いかもしれないんだけど、肉体の限界って漫画家にもあるんですよ。続けようと思えば、永遠に続けられると思うんです。僕はその時に感じた不思議なことを漫画に描いているので、なぜ殺人鬼になるんだろうとか、なぜボスの仲間になって言いなりになるんだろうかとか、人間にはいくらでも謎はある。理的にいうと、人類が絶滅しない限り謎は生まれ続けるから、『ジョジョ』はいつまでも続けられるとは思うんです。でも、年齢的に考えると、九部ぐらいまでじゃないかな。
――荒木さん御自身が『ジョジョ』に込めている一番のオリジナリティは、どこだと思いますか?
荒木 一番のオリジナリティか……,難しいな(笑)。キャラクターの造形なのかな? でも、それもどっからかは引っ張ってきてるんじゃですかね。友達だったり、見たり読んだりしたものだったり。じゃあですね、僕のオリジナリティはスタンドですよ。だって、僕の人生がもろに出ちゃってるんだから。第四部のノベライズをやってくれた乙一さんが、「スタンドのアイデアがほしい」と言ってきたことがあるんだけど、「スタンドって自分の人生観が出るものだから、僕のアイデアをあげてもつまんないと思うよ。うまく書けないと思うよ」って言ったんですよ。スタンドには、その人の性格とかね、人生で培ってきたものが出るんです。だから僕のオリジナリティというか、僕の人生は全部、その時々のスタンドに表れていると思う。
――最後にお伺いします。「漫画家・荒木飛呂彦」を表現する言葉は何でしょうか。天才、ですか?
荒木 天才でもなんでもないですよ!僕はただ少年漫画を描いてきただけなんだから。だからまぁ、ひねくれ者かな(笑)。「少年誌だからこう」とか「こうす は人気が出る」とか、人からこやれと言われたことは絶対やりたくない。だってさ、他の人がやってることを僕がやっても、面白くないじゃないですか。今まで自分が描きたいと思う漫画を描いてきたし、これからもそれでいいんじゃないかと思っています。今日何度も話に出た名前だけど、イーストウッドって、完全に我が道を行く制作スタンスで、しかも年を取るごとに評価が高くなっている。年を隠さないんですよね。映画の中で、自分を若く見せようとしない。若い時は若いキャラクターを、おじいさんならおじいさんのキャラクターを演じるんです。僕はイーストウッドを見習ってるんでね、そのやり方を目指せばいいんじゃないかなって、今はそんなふうに思ってます。