Eureka (April 1997)

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Published April 1, 1997
Eureka April 1997 Cover

An interview with Hirohiko Araki and Tamaki Saito (斎藤 環, Saitō Tamaki), a Japanese psychologist and critic, published in the Eureka J-Comic Feature magazine.

Interview

Transcript

進化する『ジョジョ』

―― 私は本業は精神科医なんですが、精神病理的な視点から語りうる漫画は、『エヴァンゲリオン』や吉田戦車などを筆頭に近年たいへん多いのです。これに対して荒木さんの作品は一種「過剰な健康さ」が特徴と言えるのではないか。ふつう健全なコミックというのは、人畜無害のつまらないものと相場が決まっているのに、荒木さんのものは健全性と個人的な表現衝動が他に例を見ないバランスを維持しているように思います。今回は荒木ファンの一人として、そのあたりの謎に迫りたいと考えています。まあそれは後のお楽しみということで、まずはデビュー当時のお話をお聞かせください。

荒木 出身は仙台です。二〇歳の頃にデビューしました。『魔少年ビーティー』という連載を仙台で描いていて、次の『バオー来訪者』の時、一九八四年のロスアンゼルスオリンピックの時に上京しました。ジャンプの『ジョジョの奇妙な冒険』(以下『ジョジョ』)は一九八七年から連載がはじまったんです。

―― デビューされて一六年、ことしは『ジョジョ』一〇周年ということになります。代表作である『ジョジョ』サーガは単一の作品というよりは、いろんなものを詰め込むための物語装置というか、世代ごとに受け継がれて別の作品になってゆきますね。現在の第五部に至っては、シリーズで共通する登場人物は広瀬康一くらいですし。

荒木 そうですね。読者が気に入らなければ、いつでもやめなければいけないという宿命がありまして。それでも、三部くらいまではある程度テーマみたいなものがあって、現代まで来ようと。主人公も、それはあまりなかったことなんですが、変えてゆこうと。そういうことをおぼろげには考えていたんですよね。

―― 物語が「ジョジョ」という血筋=固有名の連鎖で繋がっていく形式は、非常に新鮮でした。第五部の主人公「ジョルノ・ジョバァーナ」が、「ジョジョ」一族の宿敵「ディオ」の息子であるという設定のように、血筋の流れの中で、敵味方が渾然としてますね。

荒木 人間というのは良い人でも悪い人でも認め、賛美しよう、読者に元気を与えよう、そういうテーマから始まっているんです。そうすると血とか、生き方とかが重要になってくる。主人公を描く時に必ず、親の代とか、どういう境遇で育ってきてこの主人公が今あるかたちで存在しているのかということを確立し、固めていくんですよ。そういうところからやっていこうと思ったんです。

―― 最初の設定としてはだいたい三代目まで、つまり「空条承太郎」までですか。

荒木 あの辺は結構ストーリーの進行を急いでいるんですよね。三部までいくことはもうわかっているから。だけど、三部は最後だったし、これで終わりなのかなみたいな感じでやっていたんですけれど・・・・・・。描くことがガンガン出てくるというか・・・・・・。

―― 荒木さんにはあんまりスランプってないんじゃないですか。

荒木 人によって違うと思いますが、僕は割合に波が短いんですね。

―― 漫画家というと締め切り前にドリンク剤をガンガン飲んで徹夜して、みたいなイメージがあるんですけれど、荒木さんは割とクールに昼間に仕事時間を決めて、淡々と職人的にこなしてる感じがします。

荒木 するどいですね。その通りです。

―― 以前インタヴューで話されてますよね(JoJo6251「荒木飛呂彦の世界」所収)。日曜日に構想を練って、月火水とかけて描いて金土が取材。それが一〇年続いているわけで、なおかつマンネリにならないというのがすごく不思議なんです。いまだに絵柄まで進化し続けるということが、どうして可能なんでしょうか?

荒木 多分、反省じゃないでしょうか。読み返した時にちょっと違うなとか、他の作家さんの方がいいなぁとか。そうすると、やはりその点をちょっと変えていこうかと思っている。特に意図はしてないんですが。

―― 荒木さんでも他の作家の絵柄がいいとか、羨ましいとかあるんですか?

荒木 ありますね。ですが、クセがあったりして、なかなか自分の思う通りにはいかないんですけれど。

―― クセというか個性が強烈ですよね。面白いのは荒木さんの亜流ってあんまり見かけませんよね。たとえばひところ大友克洋の亜流っていっぱい出ましたけれども、荒木流って見たことない。

荒木 変化するから真似のしようがないかもしれないですね。

―― 絵柄だけ真似てもしょうがないし、セリフ回しや、めまぐるしい視点の切り替え、極端な構図やパースなどの総合されたものが荒木流ですから。亜流が出てこないというのは、そういう技術的な問題でもあるでしょうね。

荒木 絵もそうですが、ストーリー展開でも登場人物の視点が、私は自分ではずいぶん切り替わるなぁと思っているんです。そういう描き方じゃないとストーリーが進行しないというのもあるし。多分一回一九ページという制約のせいで、目まぐるしくならざるを得ない時はあるかもしれないですね。

―― それと時間の流れが独特ですよね。単線的には流れて行かない。手品的なトリックを多用されていて、時間が後戻りして実はこんなことをしていた、とか。まあ「スタンド」も実際に時を止めたり、戻したりできるわけだし。

荒木 一秒のことを綿密に描いたりするんです。登場人物が落ちていく間のことを、延々と描いて、落ちている間にここまで考えるか(笑)みたいな。

―― 第四部ラストの「吉良吉影」が死ぬところは、時間にして十五分くらいの出来事を、ほぼ単行本一冊を使って描いていますもんね。このあたりは漫画ならではの時間性ですね。  荒木さんの作品は、理詰めで明快な娯楽性といいますか、それこそSF的な意味で常に説明がきちんと出来ているじゃないですか。「スタンド」にしてもトリックにしても原理がきちっとしていないと気がすまないみたいな・・・・・・。

荒木 それはあります。幽霊や超常現象にしても、目に見えないものを描いていく場合、それが科学的であろうが漫画的であろうが、ちゃんとした原理がないと満足出来ない。それで「スタンド」みたいなものが生まれたんですよね。

―― あれはすごく斬新な感じがしましたね。あれに似たアイデアって見たことないんですけれど、なにかヒントはあったんですか?

荒木 いえ、それも「願い」から出て来たことですから。つまり超能力というのはただ念じたらバーンって割れる感じを、まぁ、何か出てきて叩けば読者はわかりやすいなと。ただそれだけなんですけれど。『うしろの百太郎』を読んで、守護霊なんかが出てきても、ただ出てくるだけで何もしない(笑)。パンチでも繰り出して、悪霊をやっつけてくれればいいのにと思っていて、そういう発想で出て来たことだと思うんですね。

―― 八〇年代初頭には、一方で大友克洋ブームがあって『童夢』のような、それこそ目に見えない超常現象をみんな描きたがる傾向があったじゃないですか。あれに対するアンチというものを多少意識されたところはあるんですか?

荒木 そうですね。超能力のわかりにくさというのをなんとかしてやろうというのはありましたね。でも大友先生の空間の描き方にはすごい勉強させていただきましたよ。コップの割れ方とかね。よく見て描いていくとちゃんとわかるんですよ、理論的に描いていて。ちゃんとこう、パズルみたいに破片をきっちり描くんですよね。水の散り方も、写真に撮ったりしてスローモーションを見て描いているんじゃないかと思うような、そういうのがすごい緻密で。好きで読んでいましたが、ただ超能力の部分がちょっとわからない、納得いかないんですね。じゃあ、わしらは叩きに行くんだ!みたいなね。そのへんが願いとして出てきたということなんだと思うんですね。

―― 独特のセリフ回しというのはいろいろなところで指摘されていると思うんですけど、翻訳調というか、翻訳ものを読んでるような感じを持つことがあるんですが、それは意図してやっておられるんですか。

荒木 いや、本を読んだ影響が残っているんじゃないかと思うんです。そういうふうに喋っている時もありますね。なりきっちゃってね(笑)。

―― 海外の小説はやっぱりキングがいちばんお好きなんですか?

荒木 そうですね。他のサスペンス系の作家をあまり読んでいないだけかもしれないですけれど。

―― 擬音についてはどうでしょう。あの一部で有名になったキスシーンの背景音がありますね、「ズキュウゥーン」という(笑)。キメの場面では必ず「バーン」とか「ドドドド」とか、独特の効果音が出てきますが、あれも内面からほとばしってくるわけですか。

荒木 何かリズムみたいなもので「このシーンにちょっと欲しい」とか。映画の影響だと思いますよ、やっぱり。たとえば殺人鬼が後ろに立つと急に音楽が鳴るじゃないですか。「キュンキュンキュンキュン」とか、「ズンズンズンズン」とかさ(笑)。なんなんだろうね、あれは。あれが欲しいんですよ。

―― やはり映画的に展開しようというのはありますか?

荒木 ありますね。視点とか、カメラの目で想像しながら描いたりしますもん。カメラがモノに寄っていったりするのがちょっと恐いなとか。何の変哲もない水の入ったグラスでも、ゆっくりとカメラが寄っていくと、毒が入っているんじゃないかなと思うじゃないですか。もちろん漫画の画面という制約はありますけど。

―― 映画はかなりお好きのようですね。

荒木 だいたい話題作は観ていますね。監督ではクリント・イーストウッド、コッポラ、デ・パルマ、スピルバーグあたりが好きですね。リンチやキューブリックは、僕はちょっと駄目なんです。もちろんいいところはあるんですが、自分のものとして採り入れようという気にはならない。

―― キャラクターもですが、ともかくスタンドの造形が見事だと思うんですよ。ウルトラマンをデザインした成田享さんが書いてますが、化け物をきちんと描くのは難しくて、かなり技術のある作家でも、化け物だけは奇形やせいぜいキメラ的な造形になりがちなんです。 荒木さんの描く化け物は、デザイン的な整合性もさることながら、ちゃんと健康で自律した生命を持っていますね。だからぜんぜんグロテスクには感じられない。

荒木 グロテスクなものは、もしかしたら描けないかもしれない。まあ作品中でもあまり残酷なシーンは描いていないと思います。例え血まみれになるような場合でも、出血はあまりリアルじゃなくデザインするし。ただスタンドの造形にはそんなに苦労しないですね。民芸品や人形の使えそうな部分をちょっとずつ持ってきたりして。それにスタンドの能力を加味して考えます。

―― 「エコーズ(広瀬康一のスタンド)」なんかも無造作に出てきた感じですか?ちょっと工夫した感じもしますが。

荒木 「エコーズ」はちょっと考えたかもしれない。はじめて成長するタイプのキャラクターを試したので。スタンドも卵から孵って変化するという。

―― 広瀬康一は好きなキャラクターなんですよ。

荒木 まあ彼の運命いかんで再登場となるかもしれませんね。でも本当にあまり計算はしていないですね。一見計算しているように思われるみたいですが。ストーリーの計算も最初の頃はやっていたんですが、ある時ね、なんか日記みたいにして描いていてもいいんじゃないかなって、今日思ったことを綴っていこうかなという気になったことがあるんですよね。ただ、方向性をはっきりさせているんで。

―― 過去のキャラクターにはあまり思い入れはない?

荒木 考えもしませんね。別れた友達みたいな感じで、懐かしいなというだけで。次の週のことで頭がいっぱいで忘れるんですよ。この世界は振り返っている暇がないんじゃないかな。

―― 以前、寺沢武一さんが荒木さんのことを、最後までストーリーを練ってから描くタイプだと解説されていましたが。

荒木 いや、それはもうないです。もう来週のストーリーがわからないですから。『バオー』や『ジョジョ』の第一部の頃はそうでしたが、それをやっていると持たない。  ただキャラクターに対して明確なイメージがあれば、その人の「運命」で行くんです。人と同じで、動かざるを得ないというか。主人公の動機付けがはっきりしていれば、こういう気持ちだからこう行く、というのは必然的に決まってきます。

―― その辺がスランプのなさというものにつながるんでしょうかねぇ。

荒木 いや、スランプはありますよ(笑)。

―― ないと言い切ってしまうのも問題でしょうけれど、ほかの方との比較で。漫画家も絵が上達するにつれて、どんどんイラスト的な比重が高くなって、物語を動かせなくなってしまうというパターンもあると思うんですが、荒木さんの場合、全然それがないですね。絵柄の変化と物語の進行が相互に加速し合っている。このテンションで一〇年続いている漫画って他にありましたっけ? 『ジャンプ』でも『こち亀』が二〇年で、『ドラゴンボール』が一〇年ぐらいでしたか。ただ『ドラゴンボール』ですらパターンの反復は避けられなかった。トーナメント方式で、どんどん強い敵が現われていく。荒木さんは、こういうトーナメント方式に対して、疑問を持っているように思うんですが。

荒木 バブル的だなと思うんですよ。あの後どうするのかなと不安になるというか、自分がそれをやれと言われる時は、えーっと思うんですよ。トーナメントは完全に否定しているところはありますからね。

―― 『ジョジョ』に関しては、どうもトーナメント式に誤解されている方がずいぶんいるみたいなんです。批評家までがちゃんと読まないで、あれはトーナメントだと断言したりするのは本当に残念です。物語が何部かに分かれているところや、あとスタンドの能力が一つしかないということで、強さよりも質で差別していますよね。こういう設定によって強敵のインフレーションを防ぐという意図はあったわけですか。

荒木 トーナメント方式は読者には受けるので、編集者がやっぱりやろうか、と言う時もあるんです。でもその時は「うーん。でもこの敵が終わったら、その時僕はどうすればいいんですか?」みたいなね。実は、第四部の杜王町の時に、これで終わりかな、と思ったことがあったんです。また違う漫画を描かなきゃいけないのかなぁと。ところが、編集部が「休みは駄目だよ」と言うから(笑)。それで仕方なく、無理やりキャラクターを作って始めましたが、でも描いているとキャラクターに情が移ってきて。

―― 広瀬康一がうまくバトンタッチをしたという感じで、読んでいるほうは何も違和感というか、本当に作為が感じられなかったですよ。

荒木 あそこは結構作ったなと自分では思っています。でもだんだんキャラクターに入っていくところから、そういう感じがなくなるのかな。

少年漫画の王道

―― 荒木さんはいろんな意味で、漫画の王道を行っている感じがしますね。

荒木 でも勘違いされて、マイナー系の人だなと思われているところもあるんです。自分では昔からある少年漫画の精神を受け継いでいるつもりなんですが。

―― それは本当にそうですね。要するに漫画の批評が荒木さんの作品について語る言葉を持っていない。私は今日、それを力説したくて来たようなものなんですけれど。これはあきらかに不当な過小評価だと思います。初期のころは「セリフや擬音が面白い」とか、そういう些細なところで持ち上げておいて、いまやマンネリとか言ってますけど、私はテンションはかえって高まっていると思います。実験性が目につかないせいでしょうかね。わかり易い実験をしないというか。いまのところ、正当な評価と思われるのは宅八郎の批評(『イカす!おたく天国』所収)だけですね(笑)。

荒木 読者が『ジャンプ』の読者ですから。そういうのに鍛えられているせいなのかもしれないですね。でも何かそれも過大評価じゃないかという(笑)。

―― いや、この王道を行きながら実験的であるというのはすごく稀有なことで、現在のあまりにも不当な評価を多少なりとも逆転させようという使命感を持って、今日は来たようなものです。  荒木さんの作品は生命賛歌といいますか、健全というのともちょっと違いますが、すごく健康的なんですよね。私は一方では吉田戦車の漫画について語ったりもしているんですが、あれはいろんな意味で病理的に語れるところがあって、逆に語り易いんですよ。ああいう漫画はどう思われます?

荒木 好きですね。ああいう人間の病的な部分をえぐり出す感じも面白いですよね。ああいう漫画を読んでアイデアが浮かんだりするけれども、僕の漫画のテーマの根本は、人間を賛美しようというところにあるんで、ちょっとそこに視点を移しちゃうだけなんですよね。ただ、僕の漫画も裏返せばああいう漫画になるとは思いますが。  前の編集者には、「もっと人間の悲しさを描こうよ」とかいうことも言われたんですよ。そうすると、うーん、描けないなという時があるんですよね。「わしの資質が違うかもしれん」とかね。そういう時はやっばり悩みます。描いてみたいと思うんですよね。  小説でいうとS・キングのホラーとか、ああいう”生まれてきた悲しさ”みたいなのもやっばり「人間賛歌」だと思うんですよ。だけど、それはちょっとなかなか行けない。だから、そこを中心に語ってしまうとへボな作家だなみたいな感じだと思うんですよね。あまりそこに焦点がいくとね。映画でいうと『セブン』のように地獄に突き落として終わるようなみたいな、あのへんは行けないと思いますね。どこかで救ってしまうんですよね、わしは。でもああいうのもいいんですよね。いいと思うんですよ。いずれは挑戦しようかなと、テーマがビシッと合った時にトライしてみたいとは思うんですが。

―― 第四部というのは少し流れが変わってサイコパスものというか、『羊たちの沈黙』とか『セブン』とか、あの辺のテイス トがちょっとあるんですね。

荒木 そうですね。時代ですかね。『ジョジョ』の第三部あたりは神話的なストーリーの様相があったんですけれど、四部あたりで少し日常のものに移ってきたというので、主人公がそういうふうになったんですよね。

―― それは積極的に採り入れた感じですか。それとも日常を描こうとしたら、必然的にそうなったという感じですか?

荒木 そうですね。宮崎の事件とか、ああいう感じで。敵の象徴が何かなと考えた時に、ディオもいろんなものの象徴として描いているんですけれど、やはり日常の、隣に住んでいる人が何をしているかわからないというのがいちばん恐いなと思ったので。で、いまの第五部の敵は内部にいる、自分の上司が敵ということになります。これは自分を守ってくれるはずの政治家や警官が敵かもしれないという意識に重なりますね。

―― 第四部の「杜王町」は例外として、あまり世界が箱庭的にならないようにということは考えますか?オタク的な閉じた空間のなかで敵が出てくると、それこそトーナメントみたいになってしまうということで。

荒木 必要とあればそれもやらないことはないと思います。でも一週間で描いている時は、本当にここだけなんですよ。一秒のあいだだけ、この空間だけでどういう攻防があるんだろうなということを考えています。そういう感じですので描いてる時は狭いですよね。あとから見るとその世界はでかくなっていますけれど。  それと毎週アイデアは一個しか出さないというのがあって、ニ個出すと読者はわからなくなるというのがあるんですよ。描くことは一個だという漫画の描き方があるんです。編集者がそういうことを言うんですよね。アイデアが二個あると、編集者は「そんなに考える必要はない」「ニ個あると駄目だよ、読者はどっちを読んでいいのかわからないだろ」と。一個でいい。

一個を照れずに描き切ると。「こういう照れたようなコマは駄目だよ」とか、あるんですよ(笑)。あえてやるんだと勇気づけられますね。こっちがちょっと不安になってくるところを「大丈夫だから」とかね。そういう編集者の言葉は大きいですね。

―― 血筋の話ですから家族が出てくるわけですが、だいたい父親が死んでしまったりとか、ヨボヨボになっちゃったりしますよね。女性を守るためといっても、それは母親を守るため、助けるために闘う場合が多いようですが、この辺も一種の健全さとして受け取ってしまうんですけれど。

荒木 うーん。読者がこれはちょっと変だなと思うようなことは避けようとすると、どうしてもそうなってしまうというか。恋人を守るためだったら、ちょっと気高くないかなという・・・・・・。もうちょっと欲望の部分、自分の損得の感じが入っていたりするけれど、それがちゃんと愛になるまでいろいろ描かなけりゃいけないですよね。だけどお母さんとか肉親だったら何の動機もいらないと思うんです。女性を守ったりすると違う話になってしまうんですよ。なぜその女性を守らなければいけないのかの話を描かなければいけなくなってしまう。話がずれていってしまうんですね。まあ女の子があまり描けないというのもありますが。何度か試してはみたんですけどね。  闘いの漫画を描きたいのに、読者はそれまでに我慢しなければいけないわけですよ。熱心な読者は読んでくれるかもしれないですけれど、『ジャンプ』の読者は闘いが見たいのに、そんなところを延々と描かれていたんじゃ……。だったらお母さんにして、そこのところはパーンと流すというやり方というのはあると思うんですよね、打ち合わせの時にまどろっこしいやり方は却下したりとかね。だからパズル的な作り方の時もありますね。ここにこうはまるとか、それは駄目だなぁとか。ここでちょっとあいつを助けようかとか、そんなのはかったるくないですかとか。ジェームズ・キャメロンのようにゴーンと行かなきゃ駄目だという時があるんですよ。キャメロンは骨太に行くところが好きですね。余計なところはあまり描きませんよね。でも背後に物語がある。

―― 実写映画が撮れたらなと思うことはありますか?

荒木 自分で撮れたらなという希望はありませんが、映画というのは芸術としてすぐれた伝達方法なんだなと思う時はありますね。映画は認めて尊敬してます。でも漫画が映画みたいな芸術になるのかなというところは疑問があったりもしますけれども。アニメはあんまり眼中にないし。

―― 加藤幹郎という評論家が、寺沢さんとか荒木さんなどの漫画を総称して、マニエリスム、つまりきわめて高度な技術で絢爛たる引用をちりばめた漫画だと指摘していますが、それは意図的になさっていることなんですか?

荒木 そうならざるを得ないというところですね。

―― 引用はされるけれどパロディはあまりされませんよね。シリアスなタッチでもアニメ的なおちゃらけがないといいますか。

荒木 あの、多少馬鹿馬鹿しいと思っても、照れずにやるというのは基本なんですよ。ちょっと照れはあるんだけれど、そこを突き破っていくんですよ。そういうテクニックってあるんですよ。あえてやる!みたいな(笑)。決心がいるんですよね、あれはね。

―― やっばりおちゃらけてしまいたいという誘惑はあるんですか。

荒木 ははは。あるんですよ。描いていてちょっと、なんかやばいんじゃないかなと思うこともあるけれど、それを見抜かれると読者がしらけるから。でもあれもジャンプの伝統なんですよね。車田正美先生とか、なんでここまでノレるかなという、すごい人がいますからね。

―― あれは『ジャンプ』ならではという感じですよねぇ。

荒木 よく考えると、なんで宇宙に飛んでいくみたいなね(笑)。だけど、完全に読者の上をいってしまうから、ああーってなると思うんですよね。

―― ちなみに技の名前を叫ぶのは車田正美先生ですね。

荒木 ですね(笑)。

―― 車田先生はパンチシーンの構図はだいたいいつも一緒でしたけれど、荒木さんはその辺は描き分けておられますよね。

荒木 だんだん時代も進化してくるわけですからね。うん。だから僕の漫画はやはり伝統に則っていると思います。

―― 最近こいつはいいと注目しておられる漫画家の方はいますか?

荒木 うーん。いっばいいるけれども認められないなという部分もあったりとか。オタク系の漫画家というのは、ちょっと理解できないけれども、うまいとは言わないけれども、やっばり独特の魅力があるのかなと思うんですよ。みんな熱狂的にその絵がいいといって支持しているわけでしょう。だけど自分にはわからない部分もあったりして。なんでこうペラペラに描いていいのかなとかね。同じ顔ばっかりでいいのかなとか。  望月峯太郎さんは好きですね。『ドラゴンへッド』は読んでます。『バタアシ金魚』はよく判らなかったけど、『座敷女』のころからいいなと思い始めて。『ジャンプ』では、うすた京介『すごいよ!マサルさん』。あとあの『カイジ』の福本伸行さん(『ヤングマガジン』連載)。『カイジ』はわし好みじゃないですか、そんな感じしませんか。絵はちばてつやを記号にしたみたいな感じで、そんなにうまくないけど。あれはいいんですよ。去年燃えたのはあれですね。本屋に走っていったのは久々ですね。

―― 今日のお話を聞いてますます確信しました。やっばり我々がすごいと思っている部分を全部軽い気持ちで出しておられるというのがわかりましたので(笑)。これはもう天才性の証ということで。

荒木 天才じゃないですけどね(笑)。でもあまり重要じゃないと思うんですけどね。

―― 我々の見方も間違っているのかもしれませんけれど、でも他の漫画と違うところに目がいってしまうんです。意図して違わせてるのかなと思うと、そうでもないわけですよね。自然に出てくるもので。

荒木 それしか行けないですね。

―― そのノリで今後も一〇年、二〇年と。

荒木 わかりました。頑張らせていただきます。つらいですけど(笑)。 [1]

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