JOJO JOURNEY (September 2013)
Interview Archive
An interview between Hirohiko Araki and his first editor Ryosuke Kabashima. It was published in the History book in JOJOVELLER, released on September 19, 2013. It begins on page 13 and ends on page 42.
Interview
Q: You chose the name "Jonathan Joestar" because your meetings were held at the family restaurant "Jonathan's", right?
Araki: What? Jonathan's? (Laughs)
Kabashima: Didn't you want to make the name "JoJo"?
Araki: I wanted to have an alliterative name like Steven Spielberg, so the acronym would look like J.J. or S.S. But the family restaurant we had our first meeting at was Denny's. It wasn't until later that we started going to Jonathan's.
Q: No no, you've mentioned it was Jonathan's elsewhere (laughs). You stated, "Because it was at Jonathan's."
Araki: Ohh, that was more of a "Sure, Let's go with that" type of answer. (laughs)
Kabashima: It's better for these things to be interesting, right? (laughs). Araki-san likes legends. He thinks it's better for it to be interesting than for it be a fact. That's likely the root of this.
Araki: Legends are a requirement for the horror genre.
Q: Then the name "Jonathan" is...?
Araki: It was just to make the J.J. alliteration. I didn't really take it from anywhere in particular.
Kabashima: It seems the origin of Jonathan has also become something like an urban legend, but it was definitely a Denny's at first, and then we switched to having meetings at Jonathan's somewhere during the middle of serialization. It was convenient because it was close to Araki-san's workplace at the time.運命対談
荒木飛呂彦
×
椛島良介
(初代担当編集者)
漫画家・荒木飛呂彦と、その初代担当編集者・椛島良介。10年という月日をともに歩み、ともに作品を作り続けてきたふたりが『ジョジョの奇妙な冒険』の秘話を明かす。作家と編集者、それぞれの立場から、出会い、作品作り、思い出、互いのこと、そして『ジョジョ』を語りあう――
題して「運命対談」。
荒木飛呂彦!
椛島良介と会う
――30年以上にわたるお付き合いなので、あらたまっての対談というのは照れくさいかもしれませんがよろしくお願いします。
椛島 最初、「ウルトラジャンプ」(以下、UJ) 編集部から対談を依頼された時は、自分が表に出るのはちょっとどうかな、と思ったんですよ。編集者はあくまで黒子ですからね。
荒木 でも、あの当時のことは椛島さんしか知らないから。
椛島 漫画編集の現場から離れて10年以上経つので、時効じゃないけど、まあよいかなと。ドキュメントとして残しておくのは大事かなと思い直しました。いい機会かもしれませんね。
荒木 30年経って、こうやって対談できるのは、すごく嬉しいですよ。
椛島 でも正直、かなり忘れてるけどね (笑)。
――おふたりの最初の出会いは?
荒木 「週刊少年ジャンプ」(以下、WJ) の編集部に僕が持ち込んだ時ですね。その時、椛島さんが見てくれたのが最初で、それが1979年くらいかな?
椛島 僕もまだ新入社員の頃ですね。
荒木 僕は当時、仙台に住んでてデザイン学校に通ってて、いろんな漫画賞に応募してたんだけど、最終選考止まりとかが多かったんで、これは直接意見を聞かなきゃと思って集英社に持ち込みに行ったんですよ。
――事前にアポイントメントを取って?
荒木 いやもう、いきなり。そういうの知らなかったんですよね。当時は新幹線もなかったから特急に乗って、集英社に着いたのが午前11時くらいだったかな?
――編集者は夜型が多いから、ほとんど人がいない時間帯ですね。
荒木 その時にたまたまいて、持ち込みを見てくれたのが椛島さんで。
椛島 当時、新入社員だったから早く出社させられていたんですよ。それで編集部にいたんでしょうね。だからもう、まったくの偶然。
荒木 それでも何かね、ちょっと運命的なものを感じますよ。その時いたのが椛島さんじゃなかったら、別の人が担当になっていたでしょうから。
――WJに持ち込んだのはどうしてですか?
荒木 最初ね、実は小学館に持ち込もうと思ってたんですよ (笑)。で、ビルの前まで行ったんだけど「でっかいなー」と思ってビビったの。その隣が集英社で、当時は小さなビルで入りやすくて、「こっちから行くか!」みたいな (笑)。それで集英社の受付の人に「持ち込みですけど」って。
椛島 その受付の電話に、たまたま出たのが僕だったんですよね。
荒木 あの時は本当にドキドキですよ! 編集者の方は持ち込みなんて毎日だろうけど、持ち込む方は命がけっていうか。
――その持ち込みがデビュー作の『武装ポーカー』だったんですか?
荒木 いや、別の作品ですね。何描いたんだっけな…、忘れてる (笑)。もう原稿も残ってないんですよ。
椛島 僕も見ているはずなんですけどね。どんなストーリーでしたっけ?
荒木 短編で…、あ! 砂嵐だ。たしかね、誰かが砂嵐で遭難するみたいな話だったと思う。ヒーローものとかじゃないんですよ。完全にサスペンスなんですよね。それでね、椛島さんにすごいことを言われるんですよ。こう、袋から原稿を取り出すや否や、もう新人への洗礼が始まるんですよ。1ページ目で「はみ出した線を消すくらい小学生でもできるでしょ?」「絶対やめてね」みたいなことを言われて。あとはストーリーでも「どうしてここはこうなったの?」とか聞かれて。
椛島 そうだっけ?
荒木 そう。
椛島 憶えてないねぇ (笑)。
荒木 僕は憶えてますよ (笑)。言われて「ああ、そうかッ!」「ちゃんとやらなきゃいけねーんだな」と思いましたから。
――そういった指摘を受けて『武装ポーカー』が描かれたわけですね。
椛島 半年後ぐらいですかね。『武装ポーカー』を読んだ時は驚いた。最初の持ち込みの時、本当にそんなに厳しいこと言ったかな? っていうぐらい、完成度が高くて。
荒木 言われたことをちゃんと反映できたからじゃないですかね。
椛島 ぜひこれは手塚賞にということになって、あとはトントン拍子に準入選。手塚先生が大絶賛してくださったのを憶えてます。半年後のパーティーでお会いした時にも「荒木さん、どうしてますか?」って気にかけてくださっていたほどでね。
――実は『武装ポーカー』の生原稿をお持ちしました。椛島さんが見るのは30年ぶりくらいですか?
椛島 そうですね。手塚賞のあとWJに掲載されて。懐かしいね。
荒木 デビュー作をWJに載せてもらったのが、名誉なことっていうか。普通、新人がいきなり本誌ってあまりないんですよね。
――椛島さんから見て、新人時代の荒木先生はどんな印象でしたか?
椛島 独学でやってきたんだろうなというのは、この原稿を見るとすぐわかりましたよ。印刷がされない余白のところまで、きちっと枠線が引いてあったり。普通はここまで描かないから。
荒木 すっごいペラペラの紙ですよね。どんな紙に描いていいかもわかんなかったから。
椛島 あらためて見ると、もうこの当時から、描き文字とか擬音のおもしろさがありますね。「ドギュウウン」とか、「ガーン!」とかね。
荒木 でもさ、この目の前で読んでもらうのって、今もちょっと緊張するんですけど (笑)。新人の頃を思い出してしまって…。
椛島 持ち込み原稿を読む時は、お互い沈黙してる上に、それなりに時間がかかりますからね。
荒木 その「間」っていうの? それが怖くてね。で、「ここ、ちょっとわかんないんだけど」とか聞かれるとさ、もうダメだ! みたいな (笑)。だけど最後にちょっと「おもしろいね」とか言ってもらえると、おお! って感じでね。
椛島 最初から、誰かの真似ではない独特の雰囲気はあったよね。それと、映画が好きなのかな、というのはすごく感じました。WJの漫画が好きで持ち込んだという感じではなく、最初から自分の世界を描いていた。だから正直、WJ向きじゃないな、と。
――『武装ポーカー』のあとが『バージニアによろしく』、そして『アウトロー・マン』と続きますが、椛島さんは編集者として荒木先生にどういった作品を描いてもらおうと思っていたか憶えていますか?
椛島 無理に当時のWJ風に描いてほしいとか、そういうのは一切考えなかったですね。僕自身もホラーやサスペンスが好きだったというのもあるんですけど。だから読切を描いていた頃は、『バージニア』にしても『アウトロー・マン』にしても、一言で言えば「好きにやってくれればいいよ」って感じでしたね。基本的に荒木さんの世界観というか、感性に任せていました。
――初期の短編群は、西部劇だったりSFだったり、いろんなことを試している感じが伝わって来ます。
荒木 椛島さんが喜ぶんですよ (笑)、そういう作品を描いていくと。
――喜ぶ?
荒木 当時の漫画界にないものを描け、他の作家が描いていないものを描けっていう雰囲気があって。そういう作品がWJにはある意味必要だったっていうか。
椛島 ただ、デビューしたからには人気も取らなきゃいけないっていうのがあるじゃないですか。そのハードルはやっぱり高かったですね。
――当時の編集部の中での、荒木先生の評価はどうだったんでしょうか。
椛島 初期の短編を読むだけでわかるように、すごいストーリーテラーでしょ? 当時のWJの他作品とはテイストが全然違ったので、「これはウチじゃないんじゃないか」って意見もあったんですけど、ストーリーテラーとしての才能は誰もが認めていたんじゃないかと思います。
荒木 でも読切はあんまり人気無かったんじゃないかと思いますね。いわゆるヒーローものでもないし、後味が良くないのもあるし (笑)。
椛島 でも新しかったと思うんですよ。当時はスティーブン・キングとか、モダンホラーの好い作品がどんどん世に出た時代だったから、すごく刺激を受けてね。
荒木 そういう話、よくしていましたよね。あの頃、ホラー映画が新しくて。『バオー来訪者』の頃なんかも椛島さんが本とか映画とか、色々薦めてくれるんですよ。マニアックな本とか、まだ日本に入ってきてないホラービデオとか。そういうのを紹介してくれるのが刺激になって、嬉しかったですね。
椛島 荒木さんと話している時は、いつもそういう話が多い。打ち合わせはいつも30分くらいで終わって、あとはもう2~3時間くらい雑談でね (笑)。こんな面白い小説があったとか、すごい映画が見つかったとか、お互いに。趣味を語り合ってる時間でもあるんだけど、それがまた作品に繋がっていくようなね。
荒木 分析したりするんだよね。
椛島 だから楽しかったですね。
――その時間が『魔少年ビーティー』や『バオー来訪者』、そして『ジョジョの奇妙な冒険』へと繋がっていったわけですね。
椛島 そういう世界を描いていたから当時、WJ編集部では非常にマニアックな作家になると思われていたんですけど、僕はもっと多くの読者を期待できるんじゃないかと思っていて。
荒木 椛島さんがね、マイナーなところでマイナーな題材をやっても意味がない、WJでやるから意味があるんだって言うんですよ。
椛島 マイナーって言ったら失礼かもしれないけど、そういう雑誌でね、そういう題材をやるのは普通じゃないですか。WJみたいな多くの読者がいる中で敢えて成功させたいな、と。それは価値があるだろうし、可能性はあるとは思っていましたよ。ただ、厳しい道のりでしたよね、やっぱり。
荒木 でも、すごく勇気づけられましたよ。おお、はいはい! って感じ。なんかいいんですよ、そういうのが。
椛島 偉そうに色々話しましたけど、正直言えば僕も当時は駆け出しの編集者なわけです。振り返ると荒木さんは漫画家として、僕は漫画編集者として、試行錯誤しながら一緒に歩んでいったという感じですよね。
――話は少し戻りますが、おふたりが最初に出会った時の第一印象は憶えていますか?
荒木 まずね、当時のWJ編集部がものすごいイメージと違っている印象が (笑)。なんか本とか荷物が積んであったりとか「きったねーな」っていう (笑)。で、狭いんですよ。そこにいる編集さんがジーパンとかTシャツとかで仕事していたんで、なんかその…「スーツを着ているのが編集者」ってイメージと違うっていうか。あと、長髪なんですよね。ロッカーとかフォークソングのシンガーみたいな。編集部自体がものすごく怖かったです。
椛島 緊張感はすごくあったでしょうね。本当に狭かったし、毎週締切が来るのでテンションも上がっていただろうし。荒木さんは「年を取らない」ってのが都市伝説みたいに言われているけど (笑)、本当に変わってないよね。昔からルックスもファッションもあまり変わっていないし、語り口もこんな感じで穏やかだし。とはいえ、なんでも「ハイハイ」と言うことを聞く感じでもなかったですね。作品については、それなりの主張があった。
『ビーティー』登場!!
~仙台で描いた初連載作~
荒木 憶えてるのは、最初の頃は仙台で描いてて、宅配便で原稿を送るわけですよ。そうするとね、椛島さんが「ちょっと直しがあるから来て」って言うんですよ。それで4時間くらいかけて上京して、泊まり込みで集英社の会議室で直すんですよね。仙台から道具を持ってきて、ガラスの灰皿でインクを溶いたりなんかして描いたり。それで会議室で直して、また仙台に帰るっていう。隣の会議室では、連載作家さんが同じように何か描いてたりとか。そういうのを思い出しますけど。
椛島 何かの読切の時だっけ?
荒木 読切でもあったけど『ビーティー』の時もあったかな。
椛島 あれ?『ビーティー』の時はまだ東京に出てきてなかった?
荒木 仙台で描いてましたね。連載が決まる前から1話分を3週間くらいかけてひとりで描いてたんですよ。半年くらいは仙台で描いてましたよ。うん。
椛島 『ビーティー』の連載は、最初のネームを上げてもらってから実際に掲載されるまで1年半くらいかかってましたよね。その時に編集部の上司から言われたのが「少年誌で“魔少年”って何事だよ」と。当時は根性とかガッツで勝利していくっていうのが主流で、その中でクールに頭脳戦というスタイルの作品はあまり無かったし、連載作品の中でもすごい異質だった。それに対して当時の編集長が危惧したのもわからないわけではないけども、ただ僕も「すごく面白い!」っていうのは確信していたので、1年半くらいの間は編集部内で何度もやり合いましたね。当然、注文も色々返ってくるわけで、荒木さんと僕とで知恵を絞って何度も直しましたよね。
荒木 僕も、なんでダメって言われるのかまったく理解していなかったんですよ。むしろ「なんでこれがわからないんだ?」ってくらいで。『シャーロック・ホームズ』のスタイルを下敷きにして描いていたから、妙な自信があるんですよ (笑)。
椛島 麦刈公一くんがワトソンでね、ビーティーがホームズなんだよね。
荒木 それの悪者バージョンっていうか。
椛島 ピカレスクの主人公を持ってくるのはWJでは珍しかった。正直、人気は最初はかなり厳しかったんで10回連載で終わったんだけど、実は最後の「そばかすの不気味少年事件の巻」はアンケートの人気が上がったんですよ。
荒木 あの最後の話、傑作ですよ。自分で言うのもなんですけど (笑)。
椛島 連載作品が15~16本くらいだったと思うけど、その中でベスト10くらいに入ってきたんだよね。読者も『ビーティー』みたいな作品を受け入れてくれたという感触もあって、編集者としてホッとしたというか自信を持ったと同時に、「なぜ人気が上がったのか」という分析もしましたね。あれはね、そばかすの少年という敵役が良かったんですよ。それまでの敵はマッチョだったり変人だったりで、頭脳戦を仕掛けてくるタイプじゃなかった。でもそばかすの少年はある種、ビーティーと対になるようなシャープなところがあって対等に渡り合える敵です。だから頭脳戦の方向で押して連載が続いていれば、もっと面白い作品になったんじゃないかなと思いますよ。今回、あらためて作品を読んで、僕は続きを読みたくなった。『ビーティー』の舞台って、あれは仙台の雰囲気でしょ?
荒木 そうですね。あまり南の方に行ったことはなかったんで、日本は北の方しか知らないんですよ。
椛島 『ジョジョ』の第4部に似た雰囲気と、描かれる建物も外国っぽい雰囲気があったね。荒木さんに海外旅行を薦めたのもこの頃ですよね。『ビーティー』が残念ながら終了したあと、荒木さんにアドバイスしたのが「とにかく外国、特にヨーロッパには行ったほうがいいんじゃないか」って。作家さんによっては外国に行ってもただの旅行で終わる人もいるんだけど、荒木さんの場合は身になっていくんじゃないかという感じがあった。ただ、まだ荒木さんも新人だったんで編集者として僕が同行することもできなくて、ひとりで行ったんだよね?
荒木 最初はそうですね。ツアーに入って、ロンドンからパリって感じで。それが初めての海外旅行でした。
椛島 今はもう毎年のようにイタリアにも行かれてますけどね。最初にひとりで行った時、飛行機の中で具合が悪くなって乗務員さんに膝枕してもらったんだよね? (笑)
荒木 え~ (笑)、まぁ、そういうのもありましたけど (笑)。
椛島 自転車で仙台から北海道まで行ったりもしてたから、旅そのものは好きだったよね。
荒木 いや、それほどでもないですよ。海外は、まず飛行機代がすごく高かった時代なんですよね。
カルト的人気を得た『バオー来訪者』
椛島 『ビーティー』は仙台で描いて、『バオー』の連載前で上京でしたっけ? 僕と荒木さんとふたりで不動産屋を回りましたよね。
荒木 新井薬師 (編集部注・東京都中野区) にワンルームを借りて、そこで『バオー』を執筆ですね。1年くらいしかいなかったですけど。そこが仕事場兼住居って感じで、東京に来ていちばん最初の頃ですね。
椛島 週刊連載は時間がないから、仙台と東京の行き来の時間ももったいなくてね。濃密な作業をするには、やはり東京でないと。
――『バオー』は、どんな打ち合わせから始まったんですか?
荒木 最初は、やっぱり肉体的なアクションにしようかっていう感じですよ。当時はシュワルツェネッガーやスタローンみたいな肉体派の映画が流行ってて、『ビーティー』が頭脳戦だったから「次はもうちょっと肉体を使おうか」みたいな発想だったと思いますよ。ある意味、ちょっとWJ的にしたっていうか。そういうのはありましたね。
椛島 『バオー』は典型的なストーリー漫画ですよね。キャラクター漫画というよりはストーリー性が強かった。だから「人気を取る」って言う意味では不利でしたね。荒木さんの頭の中で1本の映画のようにストーリーが構築されているものを、連載形式で週ごとに分けて読んでもらうわけですから。
荒木 そういうのはちょっとありましたね。ただ、人気を取ろうという意識は自分の中にはあんまり無かったですね。「これが受ける」とかって分析もあんまりしないし。制約がかかって描けないことが多くなりそうな感じで、嫌なんですよね。
椛島 人気の話は、あまりしなかったよね。もちろん僕は「人気を取らなきゃ」って思ってますけど、それは僕が打ち合わせの中で作品に反映させていけばいいことなので。打ち合わせでは、やっぱり面白さを追求していくっていう感じでしたね。でも、まぁコミックスが2巻で終わっていますから、人気は厳しかった (笑)。でも、当時の西村繁男編集長はすごく高く評価していました。今にして思うと、敵が巨大な猿とかマッチョ系が多かったけど、そこは「そばかすの少年」みたいな方向で追求したほうが良かったかもしれない。この辺は『ジョジョ』への課題として残ったと思ってますけど、荒木さんも『ビーティー』と『バオー』で得たものはすごく大きかったんじゃないですか?
荒木 そうですね。それと当時、車田正美先生が褒めてくださったことを憶えていますね。コミックスの巻末では寺沢武一先生にも褒めていただいて。嬉しかったですよ。力になりましたし、感謝してます。
椛島 ある種のカルト的な人気の反響はあったよね。アンケート以外のところでの反響が結構聞こえてきたり、連載が終わってから別の出版社の雑誌で特集が組まれたりもした。そういったことも荒木さんのある種の自信に繋がっていったと思います。
荒木 『バオー』にはドレスっていう組織が出るんだけど、椛島さんは「話の中で描かなくてもいいけど、組織はちゃんと構築しなきゃダメだ」みたいなことを言ってましたよね。架空の組織でも、現実の組織と同じようなちゃんとした背景とか目的を設定しないとリアリティが出ないってことで。それで椛島さんがよく「読んでね」って薦めてくれたのが世界中の組織・結社の本でしたね。すごく読みましたよ。「こんな世界が世の中にはあるのか」とあらためて思ったし、好きでしたよ、ああいうのは。
椛島 ああ、そういうこともよく話しましたね。漫画は何でも描こうと思えば描けてしまって、例えば簡単に地球を割っちゃったりもできるんだけど、その作品なりのリアリティが大事なんじゃないか、とか。ひとつの大きなルールがあって、そのルールを作るためにはキャラクターや組織の背景をある程度考えておかないと、本当にリアルな感じには演出できない。
荒木 嘘の世界じゃなく、あたかも存在するようなものの中で話を進めるっていうか…。だからその手の本を紹介してくれるのがすごく良かった。最初は意味がわからなくて「趣味を押しつけられてんのかなー」とか思ったけど (笑)、ちゃんと読むと分かってきました。『エイリアン』で有名になる前のH・R・ギーガーのイラスト集やシド・ミードの画集とかも見せてくれましたね。
――この当時、椛島さんが編集者として最も注意していた点はどこですか?
椛島 それは編集者として最も基本的なことですが、まずスケジュール管理ですね。締切を守るために作家さんが徹夜を続けるのは良くないだろうと。週刊連載はマラソンと同じでペースを守っていかないと、どこかで破綻してしまうと思います。だから、「まずスケジュールはきちんとしよう」というのがあり、アイデアが出なくて大変な時もあったかもしれないけど、そこで時間を使うと翌週はもっと大変になる。荒木さんも、そこはブレなかったですね。締切は判で押したようにしっかりと守っていただけた。
――当時のスケジュールは、どんな感じだったんですか?
椛島 月曜日にネームチェックをして、木曜日には原稿が完成してましたね。で、その木曜日の晩には次回のだいたいの流れを打ち合わせで決めて、金曜はお休み。土曜からネームを始めて、また月曜にはネームチェックということの繰り返しでした。この「金曜から土曜にかけてのオフ」というのが大事でね、そこで色々な映画や本や、体験をしてインプットしてもらうんです。このオフを取るためにも、他の日をきちんと進めたんです。だからものすごく忙しいはずの週刊連載をしていても、荒木さんは毎週のように映画館に行ってましたよね。
荒木 ああ、そうですね。
椛島 僕もたまにご一緒したりしましたね。話題作から変な映画まで、とにかくそういうものを観に行ってました。で、そのインプットがあったから、打ち合わせの時にアイデアがどんどんと出てきたんです。
戦う女性主人公、『ゴージャス☆アイリン』
――『バオー』のあとに読切で『ゴージャス☆アイリン』を2本描いていますね。
椛島 実は『ゴージャス☆アイリン』を連載しようと考えていたんだよね、『ジョジョ』ではなくて。まあまあ人気もあったんですけど。
荒木 でもね、まず自分が男なんで、女の子を主人公にするっていうのが難しい。女の子は脇役というか助演なら描けても、バトルには向いていない時代だったんですよ。あの当時の漫画、特に少年誌には、かわいらしい女の子を描かなきゃダメっていう価値観みたいなのがあったんですよね。
椛島 僕はかわいく描いてという要求はしてなかったと思いますよ。
荒木 当時のWJっていうか、少年漫画界の雰囲気がそうでしたよ。
椛島 WJでも『きまぐれオレンジ☆ロード』がヒットしてましたね。ただ、WJ編集部そのものはそれほどラブコメやかわいい女性キャラクターという雰囲気ではなかったと思いますよ。まぁ、正直ね、私もラブコメのような作品はあまり得意じゃない (笑)。そういうセンスがないんでしょうね。
荒木 戦う女の子は本当に難しいです、ええ。外国人を主人公にするよりも難しいと思いますね。2回くらい描いたんだけど、あれで吹っ切れた部分はあるかもしれないです。
――外国人が主人公といえば、いよいよ『ジョジョ』第1部ですね。
そして『ジョジョ』連載スタート!
――ジョナサン・ジョースターの名前は「ファミレスのジョナサンで打ち合わせをしたからジョナサン・ジョースター」なんですよね。
荒木 え、ジョナサン? (笑)
椛島 名前を「ジョジョ」にしたかったんでしょ?
荒木 頭文字がJ・Jとか、S・Sとか、韻を踏みたかったんですよ。スティーブン・スピルバーグみたいに。でも『ジョジョ』の打ち合わせを最初にやったファミレスはデニーズですよ。ジョナサンに行くようになったのは、そのあとなんで。
――いやいや、先生どこかで言ってますよ (笑)。「ジョナサンだったから」って。
荒木 ああ、それは「そーゆーことにしておくか」みたいな感じ? (笑)
椛島 話は面白いほうがいいよね (笑)。荒木さんは伝説好きだよね。事実よりも面白いほうがいいだろうっていう。それが根底にあるんだよね。
荒木 伝説はホラーの条件ですから。
――じゃあ「ジョナサン」という名前は…。
荒木 J・Jって韻を踏んだっていう、ただそれだけ。特にどこかから引っ張ってきたわけではないです。
椛島 ジョナサンの由来が都市伝説みたいになっちゃってるけど、たしかに最初はデニーズで、連載途中からジョナサンでの打ち合わせになったんですよ。当時の荒木さんの仕事場に近くて便利だったし。
荒木 そのジョナサンがいいんだよね! しかもなんかね、その店が牧場の跡だったんですよ。旧牧場の跡地にお店が建ってて、牛魂碑っていうのがあったりして。椛島さん、「そういうとこは縁起がいいんだよ」みたいなこと言ってましたよ。
椛島 そうだっけ? (笑) あのお店はまだあるのかな?
荒木 牛魂碑はあるみたいだけど、マンションか何かになっちゃってるらしいですよ。
――第1部のいちばん最初の打ち合わせで、もう波紋のアイデアはあったんですか?
荒木 要するに、何にでもルールを作りたかったんですよ。で、超能力もなんかこう、「見えないものを絵にしたいね」っていう感じで始まったんですよ。それで、波紋だったら絵に描けるから、パワーの大きさとかどれだけの強さかっていうのを見せられる。とにかく、「超能力を絵で描く」。
椛島 それはスタンドも同じだよね。ただ、波紋はその意味では不十分だったけど、スタンドは超能力を見えるものにしてキャラクターにまで持っていった。その発想は画期的ですね。スタンドという発想があったから、その後の20年も続けられたんじゃないかな。これは荒木さんに初めて言うことかもしれないけど、『ジョジョ』も最初の頃はあまり人気は無かったんですよ。第1部は、『バオー』と同じく典型的なストーリー漫画。今読んでも面白いし傑作だけど、やはりあれを毎週20ページずつ読むというのは、読者にはハードルが高かったと思うんですよ。「人気がないと打ち切り」という徹底した容赦ない厳しさがあるWJの中で、僕は打ち切りもある程度は覚悟していた。ただ、西村編集長が、ストーリーテラーとしての荒木さんの才能を非常に高く評価していた。だから人気のわりに、続けることができたんです。第1部は1年間くらいだっけ?
荒木 それくらいですね。
椛島 第1部はなにしろイギリス人じゃないですか。しかも100年前の話 (笑)。すごいよね。
荒木 やばいですよね (笑)。椛島さんも結構反対されてましたよね。「外国人が主人公なのはダメだ」って最初におっしゃってた。
椛島 厳しいとは思いました…というか普通はみんな思いますよ (笑)。世代交代ってのは、最初から決めてたの?
荒木 うん。これは椛島さんにも言ってなかったんですけど、世代交代したかったんですよ。主人公を殺しちゃうのって、それはすごい冒険でしたけど。『エデンの東』みたいな、ああいう話にしたかった。因縁があるっていうか…。もともと『ジョジョ』は第3部で完結させる構想が第1部の頃からあって、DIOが第3部でよみがえってくる話にしたかったんですよ。
椛島 それは初耳ですね。
荒木 打ち切られたら「まぁ、そこまでかな」っていうのもあったけど (笑)。
椛島 私は私で「第1部の展開で人気の獲得は難しい」って思っていたから、「打ち切りになる前に第1部にピリオドを打って、第2部の展開を考えよう」という作戦もあった。
荒木 だから第1部と第2部の間に連載の休みは入ってないですよね。
椛島 第2部、そして第3部と主人公像はかなりパワーアップしてますよね。ジョナサンはお坊ちゃんで純粋だけど人間的な魅力にまだ乏しいところがあって、ジョセフはお調子者という色が出て、第3部の承太郎になるとキャラクターにかなり陰影が出てきている。その進化もすごいですね。
荒木 ああ、ジョナサンはディオを描くためだから。
椛島 第1部はディオがいちばん描きたかったんだよね (笑)。
荒木 そう (笑)。ディオを描くためのジョナサンなんです。
椛島 その意味でも、ジョナサンだけだとヒーローとして厳しかった。スピードワゴンやツェペリのようなキャラクターが出てきて「主人公と仲間」という形が見え始めて、そこから読者の反響も大きくなってきたんです。こういった話は荒木さんには全然伝えていなかったんだけど、そこは阿吽の呼吸で汲んでくれたよね (笑)。第2部になると、アンケート結果もかなり良い回もありましたね。だから結構続いたはずですよ。
エジプト旅行に行こう!
荒木 椛島さんと一緒にエジプトに行ったのって、この頃でしたっけ? あの頃の椛島さんって古代エジプトにはまっていて、それで誘ってくれて。でも僕は特にエジプトとか行きたくなかったんですよね(笑)。
椛島 え、でも楽しかったじゃない?
荒木 楽しかったけど、好きな国ってあるじゃないですか。エジプトはあんまりそういうイメージじゃなかったわけですよ。だって椛島さん、「エジプトはコーラ瓶の底に砂が溜まってんだよね」とか「前の旅行で○○さんが食中毒になっちゃってさ」とか言うから、こっちは「行きたくないなあ」みたいな感じだったんですよ。でもその旅行でナイル川のクルーズツアーに参加したりとかして。その経験があったんで第3部の時に「じゃあ、DIOはエジプトにいることにするか!」みたいな感じになりました。
椛島 すぐ作品に取り込まれるわけじゃないんだけど、のちにそれが活きてくるというか。エジプトに行っていなければ、第3部はまた違っていたかもしれないね。
荒木 たしか飛行機で24時間くらいかかりましたよね、当時は。ロシアの上空が飛べなかったんだと思う。…あっ! その旅行で思い出した! あの頃の椛島さんが「読め」って薦めてくれた『現代殺人百科』を「飛行機の中で読むかー」って持っていったら、もう殺人のオンパレード (笑)。24時間ずっと (笑)。
椛島 あれ、僕が薦めたんだっけ?
荒木 そうですよッ!! コリン・ウィルソンの『現代殺人百科』。
椛島 でもそれ、飛行機に持ってこなくていいよね、普通。
荒木 あれ読んでて、なんか機内でおかしくなりましたよ。気分が悪くなった。
椛島 24時間、ずっと読んでたんだ (笑)。
荒木 でも、その殺人鬼ってのが謎だったんですよね。「世の中にこんな人がいるのかッ?」って。明確な動機とかがないんですよね。あの辺も、ある意味で浪漫って言うと変だけど謎ですよね。
椛島 人間とは何だろうっていうね。荒木作品は“人間讃歌”なんだけど、影の部分をちゃんと押さえているから光である“人間讃歌”が描けるわけでね。でも、もともとそういうシリアルキラーとかに興味はあったでしょ?
荒木 それはやっぱり興味はあったけれど。
椛島 それはもう初期の短編を見ればねえ (笑)。
荒木 だから、あのエジプト旅行はものすごかったんですよ。行きの24時間でどれだけの衝撃を受けたかっていう (笑)。
椛島 10日間くらいの旅行だったよね? 連載中だったから、たしかスケジュールを10週前くらいから少しずつ詰めていって。
荒木 体力ありましたよね。でも、あの旅行でいろんなものを見ましたよ。欧米のツアーの団体が、「アジア人とは一緒のバスに乗りたくない!」って言い出したりとか、何百年も前の時代の恨み言を現地の人が語っていたりとか。「世の中って、こういうこともあるんだ、スゲー」と思いましたよ。
椛島 イタリアにも一緒に行ったよね。当時の編集長と僕と、荒木さんとデザイナーさんだったかな。これ、なかなかの珍道中でしたよね (笑)。
荒木 たしか第2部を連載している頃でしたよね。
椛島 第2部でヴェネツィアが舞台で出るけど、そのちょっと前くらいでしたっけ。あれでイタリア好きに本格的に火が付いた感じだよね。あの時はたしか、ヴェネツィアから入ってフィレンツェ、ローマを回った。
荒木 美術とかもそうですし、見るものがすべてよかった。レストランにある塩の入れ物からして、何か全部すごかった。もう、何を見ていいのか判らないくらいで、「おお!」「おお、おおッ!!」って感じで (笑)。ホテルにしても建物のデザインっていうか佇まいからしてすごかったし。食べ物も黒かったりして、ビックリしました。
椛島 ああ、イカスミ?
荒木 衝撃だよね。「なんでこんな黒いものが⁉」って。
椛島 当時、イカスミのパスタなんて日本で知られていなかったんですよね。やっぱり普通の人と見ているところが違うんでしょうね。で、どこかに行くと必ず面白いネタを見つけるっていうか出会うっていうか。いろんな刺激が向こうから来るんだよね。
確かな手ごたえを感じた第3部
――第3部ではスタンドが出ますよね。これはもう、「発明」といっていいくらいの画期的なアイデアだと思うんですが。
椛島 波紋という超能力がまだまだ抽象的で、セリフで説明しなくちゃいけなかった。それを「何とかしたいな」という時に、荒木さんから出てきたんですよ。
荒木 そうですね。「うしろから背後霊みたいなのが出てきて、そこの茶碗を割るんですよ」っていう説明をしたと思うんですよね。ただ、WJのデザイナーさんに話しても「ワケわかんない」みたいな反応だったんで、「えーっ! キツいかなあ?」と思って。承太郎が留置場にいてスタープラチナが出てきたりするところとか、「このスタンドって何?」って編集部のみんなが言ってるよという話もありましたよね。
椛島 でも読者の反響は最初から良かったですよ。第3部で、WJ的な世界と荒木さんの世界が完全に調和できたっていう手ごたえはありましたね。あと、承太郎というキャラクターも良かった。真面目なジョナサン、お調子者のジョセフ、そして不良の承太郎でこれが日本人。それまで外国人ばかりだったから、ホッとしますよね (笑)。
荒木 親しみやすいように作り込んだんですよね、その辺は。承太郎は僕も手ごたえはありましたよ。あと「トーナメント戦はやめよう」って言ったのは椛島さんでしたよね。どんどん強い敵が出てくるっていう漫画の作り方があるんだけど、それはやめようって。「えっ、どーすんの?」って思ったけど (笑)。
椛島 同じようなことをやっても面白くないし、真似をしたような作品の連載は長続きしないっていうのも実際に見てますしね。
荒木 それでトーナメントをやめて、一緒に考えたのがスゴロクっていうかロードムービー的な戦い方。
――そしてエジプトへの旅行があったので、DIOはエジプトにいる設定にしたわけですね。
椛島 エジプト取材がうまく活かされた展開だよね。「DIOはエジプトにいる」というのは最初から荒木さんが、まだ漠然とした形でしたが言ってましたね。その時に僕が話したのは、「DIOはシルエットだけにした方がいいのでは?」ということ。何故かっていうと、最初からDIOの顔を見せて台詞をしゃべらせると、読者の気持ちがラスボスのDIOに行っちゃって、DIOとの戦い以外は単なる前哨戦になっちゃう。読者にはその時に描いている戦いとドラマがいちばんだと毎回思ってもらいたかったし、荒木さんや僕も先のことを考えすぎると気持ちがそっちに行ってしまう。だから、あまり先のことは考えないようにして、アイデアも出し惜しみせずにとにかく毎週が全力投球でした。第3部はスタンドのアイデアもいっぱい出し合いましたね。荒木さんもスケッチブックにいっぱいアイデアを書き込んでてね。アレ、今もやってるの?
荒木 今もスケッチブックにアイデアを描いてますよ。
椛島 今だと何十冊もあるんでしょ? そのスケッチブック。とにかくそんな感じでアイデアを出し合って。でも、実際30分くらいだよね、打ち合わせをやってたのって。
荒木 うん。でも出ない時は2時間くらい話してたと思うよ。第3部あたりになってくると流れは決まっているから、打ち合わせにそんなに時間はかかってないと思うけど。
――打ち合わせの中で、例えば言い合いになったりとかはなかったんですか?
荒木 あんまりないけど。でも、意見の違いみたいなのは、まぁあったかな?
椛島 人気がない頃には僕は「人気を出すためにこうしたい」、荒木さんは「描きたいのはそれじゃない」っていうところの調整はありましたけど。人気が出てからは、そういう調整もなくなりましたね。それと漫画の打ち合わせは30分くらいで、あとは雑談だったから。雑談じゃケンカにもならないでしょ (笑)。
荒木 雑談の中で、「これがいいんだよ!」って薦めてきてくれるのがいいんです。それが自分がまったく知らないようなやつだと特に。あと、僕がちょうど何かを描いてる時に、偶然ぴったりな資料を見せてくれたりとか。椛島さんには、そういう超能力みたいなのがあるんじゃないですかね。
椛島 普段から自分が読んだり見たりして面白いものを薦めているだけで、荒木さんに会うからネタを仕込んでいこうとかそういうのではないし、あまり無理して薦めているというわけではないんですよ。だから嗜好性が似ているところがあるんでしょうね。お互いホラー好きだったりとか。
荒木 人に何か薦めるのが巧いですよね。資料じゃないんだけど、僕にウォーターベッドを薦めたの憶えてます? 「母親の胎内にいるような感じでいいよ」って薦めてましたよね (笑)。僕は「すっげー!」と思って買ったんだけど、3日くらいで駄目だと思った (笑)。自分には合わなかったんで、すぐ売ったもんね。
進化する荒木飛呂彦
――荒木先生の絵柄に関しては、椛島さんから何かオーダーしたことはありましたか?
椛島 絵に関しては基本的にお任せしていましたね。パースが良くないとか、そういうことは言ったかもしれないけど、絵柄は荒木さんが自分でどんどん探求しているし。だから毎回、進化していくんじゃない?
荒木 うーん。わからないですけど。
椛島 僕はすごく進化していると思いますよ。絵に関しては、『ビーティー』から『バオー』というように作品が進むたびに進化してましたね。『ジョジョ』になってからも、例えば第2部と第3部って絵柄がかなり変わってるけど、でも連載は休んでないんだから、荒木さんが意図的に変えていったんじゃないかな。
荒木 ちょっと反省して、何か新しいことをやったりするんですよ。踏み込んでいない部分をやろうとか、何かを追求してみようとか。絵については今でもたまに言ってくれますよね。「ちょっと下手になったんじゃないか」って。そう言われて「うそッ⁉」て。で、言われると気を引き締めますよ。
――コマの演出について、椛島さんから何かアドバイスしたことは?
椛島 それは時々ありましたね。
荒木 ちょっと分かりにくかったり、デッサンが狂っていたりすると描き直しになるんですよ。
椛島 波紋にしてもスタンドにしても、普通の日常を描いているわけではないので、そりゃ描くのも難しいでしょうね。とはいえ読者がパッと見た時に分かりやすくないとまずいので、修正をお願いしたことはありました。修正を嫌がる作家さんも中にはいらっしゃいますが、荒木さんは全然そういうことはありませんでした。
荒木 人から、19ページ全部が描き直しになった作家さんがいるらしいとか、そういう伝説を色々と聞いていたんで、コマの修正くらいですむなら有り難いと思ってた (笑)。
椛島 ジョナサンでの打ち合わせで次の号の大きな流れは見えているわけです。もちろんネーム段階の演出で印象が変わりますが、そんなに大きく外すことは無いですね。逆にいうと、打ち合わせをきちんとやっていないとどっちに転ぶか分からないので、ジョナサンでの打ち合わせがいちばん重要だったんです。だから僕にとって木曜日は非常に重要な日だったんですよ。まず原稿が上がって、それをきちんと読んで、そして次の展開の打ち合わせ。木曜日は密度がすごく濃かったですね。
荒木 構築してから描くんですよ。そういう作り方でしたね。
椛島 だから全ページ描き直しなんて一度もなかったよね。
荒木 でも6ページ描き直しみたいなのはありましたよ。
椛島 よく憶えてるなあ (笑)。それ、6コマじゃなかった?
荒木 …6コマかもしんないけど (笑)。演出が雑だったりとか、そういう理由で「この後半が分かりにくいね」って指摘されて、僕のほうも「じゃあ最初から描き直すか」みたいな感じで。連載はページ数が短いんで、結構やりくりしなきゃ入りきらないじゃない? 1コマを描き直すだけだと、うまくそこに入れられなかったりするんですよね。だから自分から何ページか描き直したりしてた。
椛島 でも、納得してないとやらないでしょ?
荒木 もちろん。
椛島 第3部になると読者の人気も安定していた印象がありますね。もちろん多少の上下はありましたけど、アンケート結果が危険水域に入っていったという記憶はないですね。
荒木 「人気漫画になるとは思わなかったなー」っていう台詞もありましたよ。
椛島 誰の?
荒木 椛島さん。
椛島 ああ、私ね (笑)。だってイギリス貴族で100年前の話でって、ねえ…。やっぱりねえ (笑)。第3部の当時でWJは500万部を突破して躍進していく時代ですから。人気競争はレベルが高いし、新人の新連載はほとんど残らないと言っていい。その中で英国貴族のね、深紅の秘伝説ね…って誰も続くと思わないでしょう (笑)。それが、もう25年。
荒木 たしかに奇跡かもしんない (笑)。よく続いてますよね。見捨てないでくれて嬉しいです、ほんと。椛島さんはその当時、3本くらい連載を抱えてたんでしたっけ。
椛島 第1部が始まった頃に『魁!!男塾』や『県立海空高校野球部員山下たろーくん』を担当してたかな? 少しあとになると『まじかる☆タルるートくん』もやってましたね。週刊連載で3本は結構忙しいですよ。
荒木 しかも新連載を立ち上げたりしてましたよね。そんな中でも『ジョジョ』を捨てないでくれてて、すごい有り難かったです。
椛島 僕が直接担当していたのは第3部の終わりまでだけど、第4部の話もなんとなくしてたよね。で、「次は日本を舞台にしよう」って言った気がする。第3部が完結する頃に僕は「スーパージャンプ」に異動が決まって、そのあとは佐々木が担当してくれたんだけど、そこでまた盛り上がっていくのもすごいね。
荒木 でも担当さんが替わるって、僕は他の担当さんについたことがないからやっぱ不安でしたよー。なんていうか、こう…、故郷が無くなるような感じで。それと、椛島さんじゃない編集さんとちゃんと話したことがなくて。だから「知らない人とどうやって?」「できるのか?」ってまず思いましたね。あと、椛島さんみたいな「ここはこうしたら」っていうアドバイスとか言ってくれるのかなとか。知り合いの作家さんから、原稿をちょっと見ただけで「これダメ。見たくない」なんて言う編集者もいるぞって言われていたから。「もしそういうことを言われたらどうしよう⁉」って思いましたよ。
椛島 荒木さんは他の作家さんのアシスタントを経験してなかったから。アシスタントの経験があると、いろんな編集者を見られると思うんだけど、そういうのもなかったですからね。でも実際に佐々木でホッとしたんじゃない?
荒木 そうですね。佐々木さんは優しかったですね。
――椛島さん自身は、担当を外れた時の気持ちはどうだったんですか?
椛島 人気的にも安定していたし、作品も流れに乗っている感じもあったので大丈夫だろうとは思っていましたが、残念ではありました。私は別の青年漫画誌に行くわけでしたし。でもスパッと担当が替わるというのも、それはそれで良いんじゃないでしょうか。多くの担当編集の刺激があったからこそというのもあるし、歴代担当にも恵まれているんじゃないですか?
荒木 皆さん、素晴らしいです。個性豊かな人ばかりでWJの伝統かなーって思うし。会社の中でも出世してるし (笑)。
――第3部のコミックスの最後には、椛島さんへの謝辞が載っていますよね。
荒木 まぁ、ちょっと感謝のつもりだったんですけど、「死んだみたいだからやめろよ」って言われましたけど (笑)。
椛島 そうね (笑)。でも有り難いですね。
パートナーとして友として
――椛島さんは担当を離れてからは、一歩引いた視点で作品をご覧になっていたわけですか?
椛島 あまり熱心に読まないようにしていました。担当が変われば、新しい担当者との関係の中で作品は出来上がっていくものじゃないですか。でも自分が読むとね、どうしても言いたくなるじゃない? だから基本的には先生と新しい担当にお任せしていました。
荒木 でも『ドルチ~ダイ・ハード・ザ・キャット~』とかの短編は椛島さんが担当してくれましたね。椛島さんがチョー猫好きなんで、そこから出来た短編ですね。
椛島 昔から猫は描いてるよね、悪役だけど (笑)。『死刑執行中 脱獄進行中』とか『変人偏屈列伝』とかも僕が担当だね。あの頃は僕が「スーパージャンプ」に移ったので、荒木さんに助けてもらったっていうかね。でも、基本はそんなにお願いはしてないですよね。人気のある作家さんだけど、「スーパージャンプ」で連載して欲しいとか、そういうことは一切言っていないし、短編をお願いしたのも僕が異動してからずいぶん経ってからじゃなかったかな? やはり基本的に『ジョジョ』を大切にしてほしいんで、あまり「スーパージャンプ」に引っ張っちゃいけないっていう気持ちはありました。
荒木 椛島さんはそういうところがなんか良いんですよ。短編は岸辺露伴のシリーズみたいなスピンオフ的なものも描けるのがいいですね。
椛島 青年誌だと、普段と違うテイストも描けるというのはありますよね。
――言いにくいかもしれませんが、ふたりの関係を分かりやすく喩えるなら、どんな関係なんでしょうか。
荒木 作詞家と作曲家かな? というかプロデューサーとミュージシャンとかかな。意見を聞いて作品を作っていくっていう。
椛島 僕が現場の頃はそんな感じだったね。今は年に何回か、一緒に食事をしたりとか、どっちかっていうと友人に近い、そんな感じです。
荒木 30年、あっという間でしたね。最初に会ったのって、ついこの間のようですよね (笑)。
椛島 今は会っても仕事の話はあまりしないよね? 僕も「『ジョジョ』を邪魔しちゃいけない」っていうのが大前提にあるから。だけども関係性は変わっていない。連載当時の打ち合わせという仕事の部分が抜け落ちて、今は残りの雑談だけって感じですね。
荒木 でも、たまに会うと、いろんな情報を教えてくれるんですが、それが嬉しいんですよ。あと、椛島さんはものすごいマニアックなんですよ。ちょっと言えないような変なものを集めたりしてるじゃないですか。僕、まったくないんですよ、そういう「集める」っていうのが。コレクションしないっていうか、どんどん捨てていくって感じ。
椛島 荒木さんの場合は集めるっていうか、どんどん頭に入れるんじゃない? だってホラー映画はものすごく沢山観ているじゃないですか。
荒木 ああいう映画を観ていると、「殺人鬼は何を考えてるんだ⁉」みたいなのがあって、そういう作品を描きたいなっていうのもあるんですよ。読者に「荒木飛呂彦は何を描こうとしているんだ⁉」みたいな驚きを与えたいっていうか。ホラー映画にはそういう刺激があって、そこがいいんですよ。「ワケわかんないけどスゲー」って。
――椛島さんから見て、荒木先生のいちばん大きな才能とはどこだと感じていますか?
椛島 月並みだけどストーリーテリングじゃないですかね。『ビーティー』にしても初期の短編にしても現在でも通じるような展開だと思いますし、ラストにもっていく巧さや伏線の張り方は天性のものだと思います。WJでやる時は、それは諸刃だったところはあると思いますけど。あとは発想ですね。今の『ジョジョリオン』もそうですが、「思いっきりやろう」という挑戦を感じます。だから仕事もね、楽しんでやっていると思うんですよ。実は担当が変わってからの20年間で、途中で何度か荒木さんから弱音を聞いたりしたこともあったけど、基本的にはすごく楽しんでやっている。これは強みなんじゃないですか? 仕事だから描く、締切だから描くっていうのではなく、漫画を描いていくのが楽しいんじゃないですか?
荒木 まぁ…はい (笑)。たしかにね、椛島さんから「思いっきりやれ!」って言われたのも憶えています。WJは少年誌だから、描いちゃまずいこともあるんですよ。例えば喫煙シーンとかそうだけど、「そんなの、あとでちょっと修正すりゃいい」「とにかく描きたい時に描きたいことを描け」みたいなことを言われたことはあります。そういうのは嬉しいし、有り難いですね。制約を付けられると、気持ちがそこだけに行くじゃないですか。あとね、人気を取ると、それを分析してどうすればまた人気を取れるかみたいな話になりがちだと思うんだけど、椛島さんはそういうことを言わないのがいいです。
椛島 人気を取ると自己模倣というか自分の真似をしていくようになりがちで、それはよろしくないですから。荒木さんは自分の中で、常にチャレンジしているんじゃないですか? そうでなかったら『ジョジョ』は25年も続けられない。それと『ジョジョ』ってひとつの作品なんだけど、それぞれの部で違うと言えば違う。だから今の『ジョジョリオン』も面白いけど、第9部もあれば第10部もあるような気がしますね。それと希望としては、まったく違う作品もまた読んでみたい。
――『バオー』や『ビーティー』の新作を読みたいファンも多いはずですよ。
荒木 いやぁ、『バオー』はあの終わり方がいいんで、それはないかなー。『ビーティー』はあるかもしれないですけど。わからないですけど、うん (笑)。
椛島 『ビーティー』の頭脳戦をね、またやってもらいたい。謎めいたお婆さんとかいたじゃない? あの辺のキャラが活きてきたら、もっとすごい展開もあるんじゃないかな。『ビーティー』をやるんだったら担当してもいいね (笑)。ノーギャラでもいいよ (笑)。
荒木 『魔少年ビーティー2013』とか? (笑) 機会とアイデアがあれば、是非やりたいですね。