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{{Text|第5部『黄金の風』はじめに<br/><br/>
最近やや落ちついて、…というか、もめ事を起こしても疲れるだけだから、とりあえず従っておくかって風に定着して来たかな?という感じがする。少年漫画内の作画的表現に対する「自主規制」であるが――(「自主規制」とは、例えば、差別用語だとか差別的絵画表現⦅人種の皮膚の色の描き方⦆だとか、暴力シーンとか弱者や動物に対する虐待シーンだとか、実際の犯罪に似てるシーンだとか、不道徳的なシーン⦅裸体とか喫煙とか飲酒など⦆を編集部が自主的にマズいと思うかな?と判断して、作家に描くのをやめてもらうか、もしくは誰にも文句を言われないように表現を弱くしてもらう事)。―――この第
第5部『黄金の風』になって、ぼくは以前の『ジョジョ』よりも、もっと人間の深い悲しみだとか、この世に生まれて来る事の悲しさだとかといったものをテーマに描きたくなって来ました。<br/>人間は生まれる環境によって最初から幸せな人もいるし、もし最悪な状況の場所に生まれて来たらそういう人は、いったいどうすればいいのだろう?<br/>第
そういうテーマで「善」と「悪」の対決を描こうとすると、リアリティある「悪」の表現に対し、あの少年漫画の「自主規制」の「権力」っていうのか、「暴力」っていうのかが、突然作品を攻撃して来ます。「悪」っていうのは、タバコも吸うし、弱者に対し容赦ないし、セクハラするし、ナイフで人刺すし、首はねるし、女だって男だって犯すし、目玉くり抜くし、脳ミソ食べたりするし、差別してなくても「悪」いヤツだから差別してるっていわれるし。「悪」や「人間の闇」の部分の表現には、酷い部分とか残酷な部分の表現がギリギリまでというのが不可欠になってしまいます。とにかく、今までの自分の執筆活動ではあまりなかった事なのだが、この第
そしてぼくは当時、『黄金の風』のテーマ性を表現するのに大きな危機を感じ、表現の自由に限界の壁が設けられたのでは?とか、漫画としての芸術的な発展がもうないのでは?とか、「権力」とか「利益追及」の思想が芸術の芽を抜き取ろうとしているのでは?とか、とても思い悩んだ。現在も確実な答えがないまま、少し落ち着いた状態ではあるが、当時のぼくの気持ちが、当然ながら主人公たちのキャラクターとか行動にも思い入れとして表れている。<br/><br/>
「ジョルノ」と「ブチャラティ」という主人公たちが、自分たちが所属していた「組織」を「正義の心」のために裏切る所である。「組織」は「権力」と「恩義」の象徴で、自分たちを育ててくれた「故郷」。しかし、主人公たちは「正義」の下で生きるために、そこに闘いをいどむ事を決意します。そのシーンには作者であるぽくが、描いていながら、ぼく自身がとても勇気づけられました。主人公たちの気持ちを考えると、今でも涙が出て来ます。<br/>彼らは「権力」の庇護の下に生きていれば、安全に楽に過ごせたかもしれません。でも主人公たちは、危険でも「正義」を選択したのです。「正義の中」にこそ自分たちの存在価値を信じて。<br/><br/>
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