User:Nabu/Sandbox trad
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——主要キャラはまとめて一気に考える
主要なキャラクターの身上調査書は登場順ではなく、重要度が高い順に作ります。推理小説でよくあるパターンで、最後の方に出てくる真犯人などは、登場順は遅くても、ストーリーの鍵を握る人物なのですから、最初にある程度作っておかないと、ストーリーの伏線を張っていくことはできません。
キャラクターのイメージができていれば、ひとつの身上調査書を書く時間は、だいたい30分ぐらいですが、ひとりひとり作っていくわけではなく、何枚かまとめて一気に書いていきます。主人公と主人公に対する悪役(敵) は必ずセットで考え、「あと、主人公を盛り上げたり、助けたりする脇役も「必要だな」などと、それぞれのバランスを見ながら、複数のキャラクターを同時に作っていくのです。
第5部のように、何人かで構成されるチームのメンバーがメインのキャラクターというときは、髪型も含めたシルエットや性格、ファッションなどがかぶらないようにします。ジョルノは第5部の主人公ではありますが、あくまでブチャラティ、ミスタ、ナランチャ、フーゴ、アバッキオと共に6人で行動するチームなので、ジョルノひとりだけが目立って、ガンガン行くということにはしたくありませんでした。
第5部では、イタリアのギャングファッションや美少年を描きたいと思っていました。だからジョルノは中性的な雰囲気だし、ファッションもちょっとゲイファッションっぽい。チームの兄貴分であるブチャラティは、現実ではたぶんあり得ないおかっぱの、エロティシズムも感じさせる女性的なシルエットにしましたが、「こんな女の子っぽい感じで大丈夫かな」という不安もありつつ、「6人の少年のチームなんだから、やっぱり大人にはないぶっ飛んでる雰囲気がほしいよね。だったら、男っぽい、親分肌のリーダーじゃないな」「イタリアが舞台だし、絵だからいけるかな」と思ったのです。
——「主人公と悪役は必ずセット」という鉄則
キャラクターを考えるとき、なぜ主人公と悪役を必ずセットで作るかというと、主人公を戦いの中に入れていくというのが僕の基本的な考え方で、主人公が戦うストーリーに絶対必要なのが悪役だからです。 刑事ドラマで言えば刑事と犯人、怪獣ものなら怪獣とその敵など、善なる主人公と悪役というのは、あらゆる名作に共通する永遠の構図ですし、『アルジャーノンに花束を』のような1人称の物語でも、自分を困難に陥れている目に見えない敵のようなものが必ず描かれているものです。
たとえば、「ロボット同士が戦っている漫画を描きたいな」というアイデアがあったとしたら、主人公のロボットだけを考えても、うまくいきません。「どういう悪役と戦うのがい「いかな」と考えると、悪役となるロボット、あるいは怪獣や軍隊でもいいし、小さな生き物と戦わせるなど、色々なアイデアが出てきます。そうやって、「誰と戦うか」という設定を決めれば、キャラクターと同時に、ストーリーの流れも、自然と出来上がっていくのです。
「悪や敵と戦う」ということは、実際、僕たちの身の回りに起こっていることでもあります。僕たちが生きている社会においては、建前上、「暴力はいけない」ということになってはいますが、人生で困難にぶつからない人はいないし、何かと戦わないということはあり得ません。ドキュメンタリーなどを観ていると、「社会の仕組みや法制度が敵になることがあるんだな」と気づいたりするのですが、僕たちは日常生活の中で大なり小なり、それぞれの戦いを戦っているのだと思います。恋愛でも、心理的な駆け引きも含めたバトルがあるわけですし、結婚生活もある意味、夫婦の戦いと言えるかもしれません。
そう考えれば、見るからにわかりやすいバトルでなくても、「悪役」は必須の要素です。たとえば恋愛漫画を描くときに、いくら主人公の女の子がかわいくても、なんの障害もない恋愛を描いたら、あまりおもしろくはならないでしょう。 主人公の女の子がぶつかるトラブルを生み出す悪役がいて、さらその子が好きな男の子がいるという構図にすると、読者がハラハラして先を読みたくなるような、生き生きしたストーリーになっていくのです。
——これがディオ・ブランドーの身上調査書た!
それぐらい重要な悪役をどうやって作っていくか、また「主人公とセットで考える」とはどういうことか、まず、『ジョジョ』の中から、強烈な悪のヒーローであるディオ(DIO)を取り上げてみましょう。
実は、連載前に作ったディオの身上調査書はもう手元にありません。見直すために取ってある身上調査書もいくつかありますが、漫画に描いたらもうそこにキャラクターはいるわけなので、「もういらないや」と捨ててしまったり、気づいたら、どこかにいってしまっているということが多いのです。これはキャラクターのスケッチも同様で、ファイリングして後で探すのが大変ですし、わざわざ取っておくということはしません。
では、当時のことを思い出しながら、今回新たにディオの身上調査書を作ってみることにします。
主人公と悪役は、正義対悪、白対黒、陽対陰など、互いに相反した存在にするのが基本です。 特に少年漫画の主人公には「正義」「友情」「勇気」といった「正しい動機」が求められ、主人公の善なるキャラクターが強力であればあるほど、悪役の悪も際立たせなければいけません。ディオも、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターの対極にあるキャラクターで、ふたりはまさに光と影の関係にあります。
また、悪役キャラに必要な条件のひとつは、「主人公は、こいつに勝てそうにないんじゃないか?」と読者が心配になるほど強い!ということです。なぜなら、相手が強ければ強いほど、主人公は大きく成長できるからです。貴族の息子として幸せに暮らしていたジョナサンも、ディオと戦うことでヒーローになっていくわけですが、ジョナサンを常に上回っている存在としてのディオをどう描くかは、第1部の決定的に重要なポイントでした。
読者から熱狂的な支持を得たディオは、「悪のかっこよさ」を体現するキャラクターです。 昔で言えば『巨人の星』の星飛雄馬に対する花形満のように、少年漫画には「かっこいい「悪役」の伝統があり、ディオの身上調査書も、海外のアイドルのビジュアルなどもイメージしながら、「美しい、かっこいい少年」として作っていきました。
身長は185cmぐらいと背が高く、セクシーな肉体を持っている。黒髪のジョナサンと対比させるために髪の色は金髪にし、瞳の色はグリーン。昔ながらの悪役と同じく、目はちょっとつり目で、笑うとエクボと牙が出る。女の子にはモテるけど、自分から誰かを愛するというより支配的な感じ……そんなちょっとしたメモのようなことを書いていくうちに、ディオというキャラクターがだんだん浮かび上がってきます。
そうやってビジュアルが見えてきたら、次は家族関係です。実際に漫画には描かないとしても、僕がキャラクターを考えるときは必ず「この人はどういう生い立ちを過ごしてきたのかな」と想像するようにしています。ディオの場合は、良い家の子というより、やはり貧しい、悲惨な家庭に育ったというイメージがありました。アルコール依存症の父親からDVなども受けている、母親も苦労の果てに早くに亡くなっている・・・・・・それだけではまだ何かが足りない感じがしたので、「ひどい父親は嫌いだけど、お母さんは好き」となりがちなところを、「あんなおぞましい父親に尽くした母のことも軽「蔑している」という設定にしました。実際には、このあたりのディオの心情は漫画では描きませんでしたが、描かれていない部分も「こんなとき、ディオならどうするか」と考えるときの大事な情報になるのです。
そんな不幸な生い立ちに負けずにのし上がっていくディオですが、そういうことが可能になるのは、単にハングリー精神だけではなく、やはり抜群に頭がいいなど、何か突き抜けた才能があるということです。ディオのそういう部分に箔をつけたいと思い、学校には通えなかったけれども、通う必要がないくらい天才的な少年という要素も付け加えています。
次に埋めていったのが、「性格」の項目です。「ウソと虚飾」「次に支配」「そして排除」などの言葉が並んでいますが、要するにディオはパラサイトなんですよね。自分の本心を隠してジョースター家という貴族に寄生し、奪えるものを奪いながら、乗っ取っていく。そのときにジョナサンが邪魔なので、排除しようとするわけです。ここから、ジョナサンとディオの戦いが始まっていきます。
そうやってディオのキャラクターをだいたい作ったところで入れていったのが、吸血鬼の世界観でした。 なぜ「吸血鬼」だったかというと、当時の「週刊少年ジャンプ」は『ドラゴンボール』、『キン肉マン』、『シティハンター』など綺羅星の如くヒット漫画が並び、その中でどう自分の個性を出していくか考えていた僕は、「少年ジャンプ」ではほとんど誰もやっていないダークな世界を描いてみよう、と考えたのです。編集部からは「そういうのはウケないんじゃないか」と言われましたが、僕が描きたかった「自分には身に覚えがない、先祖からの因縁で敵が襲ってくる恐怖」は、イケイケの明るい世界観とは水と油です。「絶対に譲れない」と自分の想いを貫いて、「吸血鬼だったら、不老不死だよね」「ディオなら、こういうセリフを言うだろうな」と、いろいろな要素を融合させていき、出来上がったのが、ディオというキャラクターです。
——悪を際立たせる主人公の立ち位置とは
ちなみに、今は全然大丈夫ですが、『ジョジョ』第1部をスタートさせた1980年代当時の「少年ジャンプ」には、「読者は日本人の少年なんだから、カタカナの名前の主人公なんてダメだ」という空気がありました。ジョナサン・ジョースターを「ジョジョ」と揃えることで、「まあ、これだったら読者も覚えてくれるんじゃないか」と、やっと編集部からOKが出たのです。
ディオの名前を考えるとき、主人公ジョナサン・ジョースターの「ジョジョ」と対比させるということで言えば、同じ「ジョ」で始まらないというのはもちろん、言葉のシルエットのようなもの、たとえば丸い語感にしないとか、濁点が多いとか、そういう部分でも悪役としてのディオを表現したいと思いました。ディオという名前には、イタリア語の「神様」というニュアンスをかぶせて、全能感のイメージにつなげているのですが、その頃、ロニー・ジェイムス・ディオというロック・ミュージシャンもいたので、「ディオ」という名前には元々馴染みがあったんです。
ディオの魅力が強烈で、しかも常に先を行っている分、主人公のジョナサンの方は、どうしても平均的な人物になっていきます。ジョナサンをディオと同じくらい強烈なキャラクターにすることもできなくはないですが、必ずしも「善」と「悪」を拮抗させる必要はないという気もします。
平凡なジョナサンは、いわば『シャーロック・ホームズ』シリーズにおけるワトスンの役回りで、ファンタジー漫画の中の「基準点」という立ち位置です。 もし出てくるキャラクターが皆、ディオのようなタイプだったら、ああいう邪悪さが「普通」になってしまいます。 僕の初めての連載漫画『魔少年ビーティー』の公一くん、あるいは岸辺露伴に対する康一くんのような、読者と同じ常識を持っているキャラクターという「ゼロ地点」があるからこそ、そこと悪との間にあるギャップの激しさが浮き彫りになっていくのです。
——変えていいこと、ブレてはいけないこと
身上調査書は、絵でいうところのスケッチ的なもので、キャラクターの輪郭でしかありません。キャラクターは実際に漫画に描かれる中でどんどん動いて発展していくわけですから、漫画を描き始めてストーリーが動いていくと、身上調査書に書いたこととつじつまが合わないことも出てきたりします。そういうときは、「こういう場面にきたら、やっぱり、そういうことはしないよな」と考え直したり、回想シーンを描いているときに、もっと悲しい過去を思いついて、「こっちの方がいいね」と変えていったり、身上調査書にとらわれすぎず、ストーリーに沿ってキャラクターをアップグレードさせていくことも必要です。 「最近はこういうキャラクターが人気ですよ」といった編集部の意見を聞きながら、「優しいヤツより、ちょっと乱暴で直線的な感じがいいのかな」と、身上調査書よりもっと勢いがあるキャラクターにすることもあるし、「そのビキニの女の子、ちょっと露出しすぎじゃないですか?」という指摘を受けて、軽く何か羽織らせてみたり……音楽のライブで、その場の状況に応じて、スローテンポだった曲をアップテンポにしてみる感覚に似ているかもしれません。
第7部のヴァレンタイン大統領は、そんな風に描いている過程で変化していったキャラクターのひとりです。 最初は「一見おっとりしてるけど、実はすごく強い」という設定を考え、背が低い、ぽっちゃりした人物として描いていたのですが、途中で「やっぱり自分で戦う大統領なんだから、もうちょっと筋肉質にした方がいいかな」と考え直し、背が高い、筋肉質のマッチョな体型にしていきました。もしかしたディオも、逆にもう少しおっとりしたヤツになっていた可能性もありますね。
そうは言いつつ、身上調査書は、そのキャラクターの芯となる、大事なところがぶれないようにするためにも、必要なものなのだと思います。
ディオというキャラクターを漫画の中で動かしていくとき、特に気をつけたのは、理に適っていない間抜けな行動を絶対に取らせない、ということでした。たとえジョナサンが負けそうになっても、ディオが間抜けな行動を取ってくれたおかげでジョナサンが勝てた、という展開にはしたくなかったのです。
たとえばホラー映画を観ていると、「外に逃げればいいのに、なんで2階に行くんだよ」とか「街灯もないような場所に夜、出かけるのに懐中電灯も持たないのか」とか「タクシーが走っているのに、なぜタクシーをつかまえないんだろう」とか、現実にはあり得ない展開がよく出てきます。作り手の都合でキャラクターを動かしてしまっているということがバレバレで、一気に観客はシラけてしまいますが、漫画でも同じことが言えます。だから、いくらアイデアに詰まっていても、ディオの「かっこいい悪のヒーロー」というキャラクターから外れるような行動は絶対にさせませんでした。
また、キャラクターに情がわくと、そいつを殺さなければならないとなったとき、「本当なら、そういうことしないヤツなんだけど」という流れにもっていく誘惑にかられることもあります。しかし、そういう無理な展開にしてしまうと、やはり読者は変に思うでしょう。いくらそのキャラクターが好きでも、読者を裏切らないために、妥協してはいけないのです。
第4部に登場する重ちーは、僕が泣く泣く殺したキャラクターのひとりです。重ちーもちょっと悪役っぽいところがあって、宝くじが当たったら仗助たちと山分けしようと約束していたのに、急にお金が惜しくなって、全部自分のものにしようとするところとか、かなりクソ生意気でムカつくガキなんですけど(笑)、僕は彼のああいうところ、大好きなんですよね。
重ちーが吉良吉影に殺されるという展開になったとき、正「重ちー、生かしておこうかな・・・・・・」 と、色々考えました。重ちーは、吉良が殺した女性の手が入った袋を自分が買ったサンドイッチだと思い込んで持って行ってしまったために、殺人鬼の正体を隠しておきたい吉良に殺されてしまうのですが、重ちーが吉良に殺されないようにするためには、彼が「サンドイッチ」が入っていると思っている袋をなんらかの形で手放させるしかありません。重ちーのあの意地汚い性格からすれば、そんなことはあり得ないし、一方の吉良も自分の平穏な日々を脅かす危機を招くことは絶対に許さないはずです。だとしたら、やっぱり吉良は重ちーを始末するという展開以外、考えられない。吉良がいかに強敵かということを明らかにするためにも、結局、吉良を取りました。 漫画を描いていると、そういう決断をしなければならないときが、やっぱりあるんです。